信仰の砦
に、武力と、財力を蓄たくわ え、ややもすれば、政治的に動く集団があったとしたら、世にこれほど始末の悪いものはあるまい。 叡山などは、一国ほどな組織と実力を、持っている。 天子といえ、為政者といえ、ときには、どうすることも出来ない。 せめて、彼らから、武器という牙きば
を抜くために、いくたびか、僧侶そうりょ
が凶器を帯びるの禁令は発せられたが、行われた例ため
しはない。 一策は、ただ慰撫いぶ
があるだけだった。荘園しょうえん
を与える。僧位を与える、彼らの口癖にいう信仰の至上をみとめる、要求、なんでもきいてやる。 しかし、その増上慢ぞうじょうまん
には、限りがなかった。 「こたびこそは」 と、法皇も、内心、歯がみしたに違いない。 けれど、ついに、こんども、おこらえるにほかはなかった。 いや、輦轂れんごく
の下の、庶民こそ、なお、恟々きょうきょう
たるものだった。そこには、夜も眠れない人びとの声が聞こえる。 「ことしは、どんな異変があるやも知れぬぞ。地震ない
か、大洪水おおみず か、疫病えきびょう
か。・・・・山王が怒りをなせば、災害地に満つということじゃ。怖ろし、怖ろし」 これも、山法師たちが、言わせることである。しかし、民度は低い、事理に晦くら
い民衆は、救いようもない。 いや、法皇御自身が、すでに、そのおひとりなのだった。同じような、不安な御心理になりかけておいでになる。 祗園を、陣地として、夜ごと、夜空を焦こが
がしている叡山側は、なお僧兵の数を加えていた。そして、ふたたび、皇居へ出向かんと、揚言して憚はばか
らなかった。 そにため、主上 (高倉天皇) には、手輿てごし
に召されて、真夜半、院の御所 ── 法住寺へ、難をお避けになるなどの、騒ぎもあった。 その夜は、禁中はもとより、京中の者が、すわ大事よと、上下、眼もあてられない混乱を呈した。 山門側では、強訴ごうそ
で及ばなければ、なお “離山りざん
” という奥の手があった。 「── 大比叡、小比叡の御社みやしろ
を始め、根本中堂こんぽんちゅうどう
、大講堂、そのほか三塔の坊舎諸堂、一宇も余さず焼き払って、僧徒すべて、山を離れん」 と、いうのである。 ずいぶん乱暴な宣言だし、無恥な恫喝どうかつ
だ。 けれど、離山が、実行された前例はない。 ところが、今度はそれが、ゆゆしくも、僉議せんぎ
されたと法皇のお耳に聞こえた。あの勝ち気な御性格も、ついに、寵臣ちょうしん
の西光をなだめ給うて、山門の乞こ
いに、屈伏遊ばすほかなかった。 |