急転直下に、事件はおさまった。強訴入洛の日から、わずか七日目である。 目代
の近藤判官師経は、さきに備後に流され、つづいて、加賀守かがのかみ
師高もろたか
も、尾張の井戸田いどだ
へ、流刑るけい
となった。 僧徒は、なお、満足しない。
「十三日、大宮表で、神輿を射奉った武士どもを禁獄せよ」 と、再度の要求を出した。 ぜひなく、そのおりの武士六名ほどが、名乗り出て、獄に下くだ
った。みな、小松内大臣重盛の家中である。重盛の身すら一時は危ぶまれたほどだった。神輿の威力は、まさに、神異しんい
といっていい。 こうして、彼らは、自我を誇った。凱歌がいか
を、山門にあげた。それなのに、山門のお怒りとかは、まだ止や
まないのか、まもなく、未曾有みぞう
な大火が、都にあった。 四月二十八日の夜。烈風であったという。 夜は、戌いぬ
の刻こく
(午後八時) ごろ。都の東南たつみ
から出火して、西北いぬい
にわたり、たちまち、火の荒れ海のような、天地の模様となった。 朱雀門、内裏の大極殿、大学寮、民部省、公卿の家々、町々、幾多の寺院など、かぎりもなく、焼けてゆき、男女の死ぬ者、数千人、馬や牛は、どれほどか、数も知れない。 一夜に、京師の三分の一は、焼け野原と化してしまった。 火元は、樋口富小路
── 五条あたりの繁華街のまん中で ── 舞師の宿やど
とか、遊女の仮屋とか、いううわさである。 むかし、朱鼻あけはな
の伴卜ばんぼく
が、店屋てんや
を構えていた辺りも、もう、何も見当たらない。 おそらくは、牛飼町の牛もみな、火牛となって、狂い出し、火に、行きたおれたか、どうかしてしまったであろう。 その貧民町に住んでいる阿部あべの
麻鳥あさどり
と蓬子よもぎこ
の二人も、もちろん、焼け出されたにはちがいないが、怪我もなく、逃げおおせたか、どうか。 何しろ、都は、ひどい変化である。かの人は、この人はと、思い出せば、茫々ぼうぼう
、心もとない人びとの跡ばかりが、数えられる。 また、この大火を、まざまざと、眼に見た一人に
「方丈記ほうじょうき
」 の著者、鴨長明かものちょうめい
がある。 長明は、時に、まだ二十四の若人であった。 晩年、山中に隠棲いんせい
し、草庵そうあん
の小机に倚よ
って、方丈記を書き始めたとき、 |