〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
火 乃 国 の 巻

2013/07/05 (金) 「ほう じょう だん ぺん (二)

急転直下に、事件はおさまった。強訴入洛の日から、わずか七日目である。
目代もくだい の近藤判官師経は、さきに備後に流され、つづいて、加賀守かがのかみ 師高もろたか も、尾張の井戸田いどだ へ、流刑るけい となった。
僧徒は、なお、満足しない。 「十三日、大宮表で、神輿を射奉った武士どもを禁獄せよ」 と、再度の要求を出した。
ぜひなく、そのおりの武士六名ほどが、名乗り出て、獄にくだ った。みな、小松内大臣重盛の家中である。重盛の身すら一時は危ぶまれたほどだった。神輿の威力は、まさに、神異しんい といっていい。
こうして、彼らは、自我を誇った。凱歌がいか を、山門にあげた。それなのに、山門のお怒りとかは、まだ まないのか、まもなく、未曾有みぞう な大火が、都にあった。
四月二十八日の夜。烈風であったという。
夜は、いぬこく (午後八時) ごろ。都の東南たつみ から出火して、西北いぬい にわたり、たちまち、火の荒れ海のような、天地の模様となった。
朱雀門、内裏の大極殿、大学寮、民部省、公卿の家々、町々、幾多の寺院など、かぎりもなく、焼けてゆき、男女の死ぬ者、数千人、馬や牛は、どれほどか、数も知れない。
一夜に、京師の三分の一は、焼け野原と化してしまった。
火元は、樋口富小路 ── 五条あたりの繁華街のまん中で ── 舞師の宿やど とか、遊女の仮屋とか、いううわさである。
むかし、朱鼻あけはな伴卜ばんぼく が、店屋てんや を構えていた辺りも、もう、何も見当たらない。
おそらくは、牛飼町の牛もみな、火牛となって、狂い出し、火に、行きたおれたか、どうかしてしまったであろう。
その貧民町に住んでいる阿部あべの 麻鳥あさどり蓬子よもぎこ の二人も、もちろん、焼け出されたにはちがいないが、怪我もなく、逃げおおせたか、どうか。
何しろ、都は、ひどい変化である。かの人は、この人はと、思い出せば、茫々ぼうぼう 、心もとない人びとの跡ばかりが、数えられる。
また、この大火を、まざまざと、眼に見た一人に 「方丈記ほうじょうき 」 の著者、鴨長明かものちょうめい がある。
長明は、時に、まだ二十四の若人であった。
晩年、山中に隠棲いんせい し、草庵そうあん の小机に って、方丈記を書き始めたとき、

── われ 、もの心を知れりより、四十よそぢ 余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やや度々たびたび になりぬ。
と、その晩の、無常の狂風と、大火の光景を、つぶさに描いている。後世の筆がいかに想像をたくましくしてもても、それを眼に見た人、長明の 「方丈記」 には及ばない。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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