〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
火 乃 国 の 巻

2013/07/05 (金)  じん (三)

その日、頼政は、赤地錦あかじにしき の直垂に、品皮威しながわおど しのよろい 、五枚かぶと重籐しげどう の弓、えびら に、矢を負い、月毛のこま に、白覆輪しろふくりんくら をおいて、乗っていたという。
年は、七十四。位階は低く、まだ四位だった。
兜の、眉廂まびさし の下、頬の肉につや もなく、眉は白く垂れ、うすひげ 、まばらに、あわれ、この人、まだ生きていたかと、昔を知る人は、今夕の感にたえないであろう。
粗忽そこつ すな。下座げざ せよ、下座せよ」
頼政は、少ない部下へ、そうつげてそう告げて、自身もすぐ、馬を降りた。
兜を脱ぎ、弓をおいた。
そして、左右のひじ を地について、うやうやしく、まだ距離のある神輿の方へ、礼拝していた。
さしも、誇りきって来た慢心と殺気のかたまりも、これをながめて、
「そも、守る者は、たれ?」
「神妙な武者ばら かな。── 名を問え。名を問わん」
と、一時、息を入れて、足なみをとめた。
頼政は、その間に、
「── となう やある。長七ちょうしち となう やある」
と、部下の中を振り向いて呼んだ。
郎党の渡辺長七唱は、
「はっ。これに」
と、頼政の前へ来て、ひざまづき、頼政から、何か使いの言葉を、受けていた。
「畏まって候う」
と、となう は、大衆の中へ、使いに立った。
人びとは、目をそばだてて、彼ひとりの姿を、見守った。
となう 、その日の装束は、褐衣かちん (青に近い色)直垂ひたたれ に、小桜を横に染め出した鎧を着、赤銅しゃくどう 作りの太刀、弓をわきにかいばさみ、兜は背へ投げかけ、神輿の前に、畏まって、
「衆徒のおん中へ、物申す。しばし、おしずまりあって、あわれ、わがあるじ 、頼政殿の申し条に、おん耳貸し給われ。── かく申すは、頼政殿の郎党、渡辺党の端にて、長七ちょうしち となう と申す者」
と、ほこりも沈むような、よく透る声で言った。
「おう、いい条とや」
「何事の申し入れ」
「聞かん、いうてみよ」
と、先頭の大法師たちは、薙刀なぎなた を立てならべて唱の姿を、見くだした。
唱は、静かに、使いの口上を、つづけた。
「このたび、山門の御訴訟、道理の条は、もちろん、明白なるに、御裁断の遅々たるうち、ついに今日、神輿のおんゆる ぎ出でを仰ぐに至る。まこと、我らまで、遺憾にたえませぬ」
大法師たちの、裹頭かとう あたまは、一様に、うなずいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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