例年四月の、吉日の祭礼も、今年は、とり止めとなった。 日々、延暦寺
の政所まんどころ に集会して、険悪な空気を漂わせていた山門の主脳は、ついに僉議せんぎ
の鐘を鳴らした。三塔の山法師は、雲の如く、大講堂の広前へ集まり、たちどころに、決議した。 「強訴ごうそ
へ。── 今は、強訴のほかなし」 正確に言えば、その日は、治承元年十三日の辰たつ
の刻こく (午前八時)
。 いわゆる三千の大衆と号する僧徒に、加賀法師一千を加えた大示威は、十禅師権現、八王子、白山はくさん
、三社の神輿みこし を陣頭にかついで、下山し、 「まず、大内裏へまかれ」 と、下さが
り松まつ 、加茂河原、一条南と、押し揉んで、洛内へ入った。 昼なので、松明たいまつ
は、振らないが、町々はみな戸ざし、往来は絶え、昼も夜半と変りはない。 随参ずいさん
の山法師は、もちろん、上に法衣ころも
を着ているが、下にはみな、鎧よろい
具足ぐそく を着こみ、足は、わらじ、あるいは、平足駄ひらあしだ
、手に菖蒲形あやめなり の大薙刀おおなぎなた
という、いでたち。 頭は、五条の袈裟けさ
で、裏頭かとう (覆面)
した者もあり、無造作に、破れ布で、ぐるぐる巻きにしたのも多い。 可愛らしい少年が、直垂ひたたれ
の袖で、頭を包み、竹の棒切れなど持って、僧兵の中に交じって行くのも、妙に目を引く。 その前には、必ず、ゆゆしい大鎧を着た三塔の大法師や、眉に霜をおいた老法師が、ゆさゆさと、歩いて行った。 大衆だいしゅう
のうちでも、白大衆しらだいしゅう
とよぶのは、僧でもない俗でもない、寺仲間てらちゅうげん
や山の雑人ぞうにん である。そのほか、白丁はくちょう
の宮仕みやじ や神人じにん
、下法師げぼうし 、学生がくしょう
など、すべて武器を帯び、気負いはまったく、軍隊であった。ただ服装と旗だけの違いでしかない。 「すわ、強訴ごうそ
の入洛ぞ」 「延暦寺の堂衆二千、学生二千、神輿しんよ
を振りささげ、早朝に、下山と見えて候うぞや」 事は、早馬で、報ぜられていた。 「朝廷の諸官は、うろたえて、 「院の御所へや、まかる。大内裏へや迫る?」 と、迷ったが、ともあれ、宮門の警固を、平家の小松内大臣重盛に命じ、また一方のかためを、源頼政に、下命した。 |