いったい、その年の、山門の訴訟とは、何なのか。そして彼らの目的とする要請とは。 由来、院と山門の対立は、歴代、めずらしいことではない。 けれど、今度は、ひどく山門側が、強気であり、紛争は、去年からの持ち越しで、最悪な段階にまで来ていた。 ──
事件の起こりは。 加賀の白山
の末寺に、鵜川寺うかわじ というのがある。そこへ新任の国主の部下が、入部にゅうぶ
(国入り) 早々、公用で臨んだ。 ところが、中央から赴任して、どこかに、地方蔑視べっし
の風をもっている国司の官吏と、鵜川寺の土着の僧との間に、つまらない感情の衝突が始まった。喧嘩けんか
となったものらしい。 一方は、無礼な田舎坊主が、といい、一方は、寺法をたてにとって、命を拒こば
み、口論が腕力となり、ついに殺傷沙汰にまでなった。 新任の国司は、加賀守かがのかみ
師高もろたか といい、目代は、その弟の、近藤判官こんどうほうがん
師経もろつね という者。 (くせになる。以後の統治の見せしめにも) と、師経もろつね
は、兵を率いて出直し、鵜川寺を襲った。坊主たちも、白山はくさん
に加勢を求めて、合戦に応じ、双方、少なからぬ死傷を出したが、国司兵は、やがて寺に火を放ち、鵜川の坊舎、楼門、一字も残さず焼き払い、官威を誇って、引き揚げてしまった。 末寺の恥じは、本山の恥といい、信仰の尊厳を唱えて、徒党を糾合する。白山側は大いに怒った。生存権の拡張か後退か、にもかかってくる。結束して、仕返しを考えるなど、ちょうど後世の
“親分子分” の徒のなぐり込みと、同じである。あの無頼な集団の市井しせい
組織と違いはない。 白山の、三社八院の大衆だいしゅう
は、大挙して、 (なじか、このまま、黙もく
してあるべき) と、二千余人、武装をかため、国府の目代所へ、押し寄せた。 ところが、目代の師経は、白山勢はくさんぜい
が下山したと早耳に知り、前夜のうちに、妻子や部下を連れて、都へ、夜逃げしてしまった。 地方官が、地方へ赴任しながら、土着勢力と衝突して、都へ逃げ帰るといったような例は、将門まさかど
の天慶てんぎょう の乱らん
当時から、全国、どこにもあって、決して、まれな椿事ちんじ
ではない。 けれど、時は、将門まさかど
時代から、三世紀近くも後である。それなのに、地方の実情は、まだ、こんな有様だった。無秩序と暴力の中にあった。 平家の治下になっても、この幣は、なお、補修できなかった。地方は、原始の野に近いままであり、政治は、暴力に動かされ、武力のない人間は、すべて、あわれなる土民か流民でしかない。 だから、地方の寺社までが、武力を持っていた。中央の南都北嶺と、同じように。 大和の金峯山きんぷせん
、多武とう ノ峰みね
、加賀の白山はくさん 、伯耆ほうき
の大山寺だいせんじ などが、中でも、僧兵の雄ゆう
なるものとして、天下に聞こえている。 その白山は、叡山を本寺とし、叡山を、自分たちの中央代表としていたので、 「さらば、叡山に訴え出ろ」 と、白山冥妙理権現の神輿みこし
を振り立て、鵜川の証人を先頭に、法師一千人ほどが、物々しくも、比叡山の東坂本ひがしさかもと
さして、上洛して来た。 山門は、問題を取り上げ、ただちに、これを、院へ向かって、訴訟した。 |