〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
火 乃 国 の 巻

2013/07/04 (木) さん もん さる (二)

いったい、その年の、山門の訴訟とは、何なのか。そして彼らの目的とする要請とは。
由来、院と山門の対立は、歴代、めずらしいことではない。
けれど、今度は、ひどく山門側が、強気であり、紛争は、去年からの持ち越しで、最悪な段階にまで来ていた。
── 事件の起こりは。
加賀の白山はくさん の末寺に、鵜川寺うかわじ というのがある。そこへ新任の国主の部下が、入部にゅうぶ (国入り) 早々、公用で臨んだ。
ところが、中央から赴任して、どこかに、地方蔑視べっし の風をもっている国司の官吏と、鵜川寺の土着の僧との間に、つまらない感情の衝突が始まった。喧嘩けんか となったものらしい。
一方は、無礼な田舎坊主が、といい、一方は、寺法をたてにとって、命をこば み、口論が腕力となり、ついに殺傷沙汰にまでなった。
新任の国司は、加賀守かがのかみ 師高もろたか といい、目代は、その弟の、近藤判官こんどうほうがん 師経もろつね という者。
(くせになる。以後の統治の見せしめにも)
と、師経もろつね は、兵を率いて出直し、鵜川寺を襲った。坊主たちも、白山はくさん に加勢を求めて、合戦に応じ、双方、少なからぬ死傷を出したが、国司兵は、やがて寺に火を放ち、鵜川の坊舎、楼門、一字も残さず焼き払い、官威を誇って、引き揚げてしまった。
末寺の恥じは、本山の恥といい、信仰の尊厳を唱えて、徒党を糾合する。白山側は大いに怒った。生存権の拡張か後退か、にもかかってくる。結束して、仕返しを考えるなど、ちょうど後世の “親分子分” の徒のなぐり込みと、同じである。あの無頼な集団の市井しせい 組織と違いはない。
白山の、三社八院の大衆だいしゅう は、大挙して、
(なじか、このまま、もく してあるべき)
と、二千余人、武装をかため、国府の目代所へ、押し寄せた。
ところが、目代の師経は、白山勢はくさんぜい が下山したと早耳に知り、前夜のうちに、妻子や部下を連れて、都へ、夜逃げしてしまった。
地方官が、地方へ赴任しながら、土着勢力と衝突して、都へ逃げ帰るといったような例は、将門まさかど天慶てんぎょうらん 当時から、全国、どこにもあって、決して、まれな椿事ちんじ ではない。
けれど、時は、将門まさかど 時代から、三世紀近くも後である。それなのに、地方の実情は、まだ、こんな有様だった。無秩序と暴力の中にあった。
平家の治下になっても、この幣は、なお、補修できなかった。地方は、原始の野に近いままであり、政治は、暴力に動かされ、武力のない人間は、すべて、あわれなる土民か流民でしかない。
だから、地方の寺社までが、武力を持っていた。中央の南都北嶺と、同じように。
大和の金峯山きんぷせん多武とうみね 、加賀の白山はくさん伯耆ほうき大山寺だいせんじ などが、中でも、僧兵のゆう なるものとして、天下に聞こえている。
その白山は、叡山を本寺とし、叡山を、自分たちの中央代表としていたので、
「さらば、叡山に訴え出ろ」
と、白山冥妙理権現の神輿みこし を振り立て、鵜川の証人を先頭に、法師一千人ほどが、物々しくも、比叡山の東坂本ひがしさかもと さして、上洛して来た。
山門は、問題を取り上げ、ただちに、これを、院へ向かって、訴訟した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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