相国清盛は、治承元年のことし、ちょうど、六十になった。 六十になっても、法体
となっても、彼自身は、自己の内容に、何の変化も意識してはいない。 けれど、彼が、都のぬかるみを、縄緒なわお
の足駄あしだ でのし歩いて、高平太たかへいた
と綽名あだな されたり、貧乏で有名なスガ目殿の子伜こせがれ
よと、人に指さされる辛さに、扇で顔を隠して歩いたところ、扇の骨の間から、鼻が出ていたというので、たちまち、鼻平太と呼ばれ出したなどという時代の彼を ── 今も覚えている人びとは、 「変れば変るものかな。位くらい
人臣を極められて、さしも今は、申し分なく、貴人の相そう
を、備えられた」 と、百人が百人とも、今昔こんじゃく
の感にたえない思いをもらすのであった。 わけて、一門の輩ともがらく
は、 「さすが、近年はお姿のみか、お心までも、円まろ
うおなり遊ばして」 と、ひそかに、彼の晩香を、祝福していた。 しかし、清盛は、ふと、そういうあささやきを、耳にするたび、おかしく思った。貴人の相も、円満な心も、彼の願いではないからである。彼の願いは、なお次の夢に忙せわ
しない。 近年、宋銭の輸入を、実行させている。── 何しろ、日本の貨幣制度が、幼稚すぎる。皇朝十二銭などというものはあるが、とても、鋳造力ちゅうぞうりょく
が不足だし、第一、庶民のあいだに、貨幣の信用がなく、運用の効も、よく知っていない。 依然、今もなお、大部分が、物々交換の実状である。 だから、旅行するにも、その不便さは、ひと通りでなく、木賃の払いでも、一度の食べ物でも、物代ものしろ
でなければ、承知しない風習は、地方へ行くほど、強いのだった。 宋銭の流通は、それを、だいぶ緩和してきた。 これの輸入の代償として、彼は、別府地方の硫黄山いおうやま
から、硫黄を採掘して、宋国へ出した。 「ありがたい国よ。焼け土が、金になる」 朱鼻あけはな
の伴卜ばんぼく と、快笑したものである。 過ぐる年、太政大臣は返上して、人にやらせている。空位虚名、何かあらん、という風な彼に見えた。この福原から、朝鮮、宋国、南方とながめて、つぎつぎの計画を描く、そのため、彼はなお、老境を知らない。 そうした彼の相談相手としては、つねに、朱鼻の伴卜が、伺候していた。
伴卜も、今は、単なる御用商人ではない。 養子の五条那綱は、大納言にのぼり、福原に近い寺江には、別荘まで構えている。後白河法皇の往還には、いつも、御宿所を奉仕するほどだった。そして彼自身は、清盛の顧問格に納まり、一切、表面には出ない。虚名の大官よりは、無名の王侯おうこうく
を、望んだのだ。 |