清盛は舞楽が好きである。 観るばかりでなく、時には、自分も舞うし、歌いもする。 これは、母の祗園女御
から受けた感化かも知れないが、七ツか、八ツごろには、もう舞衣をつけて、祇園の舞台に立ち、舞ったこともあるぞよ ── とは、清盛自身がよくいう幼時の、自慢話でもあった。 しかし、ほんとのところは、やはり彼の天性であろう。彼は天性、偉大な道楽者であったと、いってよい。 厳島神社の構想。あんな道楽が、たれに頭に描くことが出来よう。大輪田おおわだ
ノ泊とまり の築港。なんたる苦労の多い長年の道楽だろう。 ──
また宋船を引きつけたり、宋人を雪ノ御所に招待したり、音戸の瀬戸を切り開き、福原聚楽ふくはらじゅらく
を建設し、それらの夢を、実現にそそぐ異常な情熱は、なべて、彼の道楽気である。── と言った方が、説明に早い。 結果として。 宋医学も、入って来た。大部な宋学の書籍も輸入された。 新しい化粧品や服飾類も、舶載はくさい
された。酒とか、豆腐とうふ とか、新しい甘味や酪味らくみ
も、伝わって来た。── 栄西禅師えいさいぜんじ
がもたらした物と言われるが、初めて、茶の木が、日本の土壌に植えられて、日本人が、緑茶の味を知り出したのも、宋文化との交流が、ようやく、活発になって来た余恵よけい
である。 つまり、彼の道楽の余恵といって、さしつかえない。 そうした彼のごく小さい道楽の一つに、彼が独創の、舞楽の創作があった。 これまで、宮中の舞楽は、いわゆる楽人がくじん
の男舞いに、限っていたのを、清盛は、女舞いに変えて、女子の楽人を養成していた。 それが、厳島の内侍である。 しかも、ただの宮中舞楽を、厳島に移して、女舞いにしたというだけでなく、多分に、宋や朝鮮の色彩も入れ、印度系の強烈な音階も加味し、 「どうだ、古くさい、宮廷のものよりは、面白かろう」 と、誇ったのだ。 そして、厳島でも、福原でも、大供養や大祭のときには、これを、庶民たちにも、公開した。 後白河法皇は、もう幾度となく、ここに御幸されている。そのほか、都の客は多いし、宋の使者も、宋の商人も、やって来る。清盛は、饗宴きょうえん
の花として、そのつど、独創の舞曲を演じさせた。 迦葉は、そのためにも、雪ノ御所には、なくてはならない女性だったろう。── ほかにもいる大勢の舞踊の生徒たちに対し、迦葉は、指揮者であり、女監督でもあった。唐朝とうちょう
の後宮制度こうきゅうせいど に
「阿監あかん 」 というのがある。彼女の役は、それと似たものであったろう。 そして清盛との間には、一人の子まであった。後に、冷泉局といわれ、幼少のうちは、御子みこ
姫君ひめぎみ と呼ばれた女子である。 |