〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/29 (土) よ ぎ もち (一)

都のつじ ではこれまでにも、遠国へ追放される流人るにん との泣き別れを、覚えきれないほど見て来たものだが、今日護送された文覚もんがく ほど、路傍の笑いや明るいざわ めきの中を、いかにも暢気のんき そうに、そして傲然ごうぜん と、都門ともん を去って行った者を見たことがない。
だが、そういう光景も町中だけのことだった。やがて粟田口あわたぐち あたりではもうぞろぞろついて来る女子どもや弥次馬やじうま もない。一列の護送使の人馬と、まれな往来の人影を見るぐらいな並木であった。
「仲綱どの。おうい、仲綱どの」
文覚は、裸馬の背から護送使の伊豆守仲綱を振り向いた。まるで連れの友達へでも話しかけるような口吻こうふん である。仲綱はわざと聞こえない顔をしていた。
すると文覚は、こんどは、自身の馬の口取りへ向かって、
「これっ。馬を止めろ。尿いばり がしたい」
と、言い出した。
口取りの兵が、ぜひなく、馬を止めたので、列全体の歩行が止まった。
仲綱はすぐ囚人のそばまで、馬を寄せてきた。そして文覚が警固の武士や下司たちに囲まれたまま、森の中で用をたして出て来るのを、監視していた。
ほどなく、文覚は戻って来たが、すぐ裸馬へ乗ろうとはしない。路傍に見えた小高いつか のような土壇の上へのそのそ登ってしまった。そして、手ごろな石に腰をすえ、
「水をくれんか。のどかわ いた」
と、警固の顔へ向かって言う。
仲綱は、舌打ちした。
初めから、厄介な護送だとは、覚悟をしていた。武者にも屈強なのを選び、警固の人数も、一見、仰山すぎるほど多くを引き連れたのは、そのための備えである。
「・・・・しかたがない。水を与えたら、怒らせぬように、だま しすかして、はやく馬の背へ上げてしまえ」
しかし、与えられた水を飲み終わると、文覚はまた言い出した。
「仲綱どの、おり入って、話がある。馬を降りて、しばらくここで休まんか」
「なにをいわるる。御僧は勅勘ちょっかん流人るにん 、それがしは、公の護送使。途々みちみち 、さようなわがままは許し難い。── 大津の浜から草津までは船によるゆえ、用談があれば、船中にてうけたまわろう」
「船中ではおそい」
「ここは洛外、まだ、都も離れぬうちに、さような道くさをしてはおられぬ。はや、馬の背に移られい。大津には、船も待っている」
「いやか」
文覚は動くけしきもない。かえって、さげす むように笑い出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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