〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/28 (金) もん がく はい (二)

「狂人か。ここを、院の御所と知ってか。── この慮外者めが」
組みついた渾身こんしん の力で、腕はしめ、声はふりしぼったが、文覚の体は、動いていない。
「もとより、存じての仕儀にて候う 」
文覚は、あらかに、自分を抱きしめている者に答えた。
「年来、大願の候うて、高尾の山中に、一宇の精舎しょうじゃ建立こんりゅう し、世の明りをともさんと念ずる者にて候うなり。── ちまたに立ちて、よぼ しき衆生の浄財にこれを仰ぐも、法皇の御心みこころ による一紙半銭なりとも、皇家のおん布施ふせ と名づくものこそ欲しけれと、かくは勧進のため、推参したして候う。・・・・あわれ、悲願を成すべき資給をこうむ らせ給え」
「だまれっ。暴力をふるって、宮苑きゅうえん を驚かし奉りながら、虫のよい言い草を」
「礼は知っている。不敬もわきまえている。それゆえに、再三再四、門をたたけど、奥の方では、管絃に浮かれ、衛士は、つんぼをよそお うているため、ついに直訴に及んだまでのことだ。── なお、さまた げると、仮借かしゃく はせぬぞ」
「何を、この狼僧ろうそう めが」
片手を解いて、敵の片手を、ねじかけた。
資行のからだが、とたんに文覚の肩を躍りこえた。地ひびきにはず み上がって、資行はまた、正面からいど みかかった。
文覚は、勧進の軸で、彼の額を打った。なお向かって来ると、胸を突いた。
資行は、もう立てない。
「まだ、文覚をはば めるか」
文覚の眼は、咄嗟とっさ に、自分をとり囲んでいた衛府の侍たち十数人を、ねめまわしていた。炯々けいけい として、その眼光は、以前の文覚よりも、精悍せいかん な野性を加えている。
彼は、山野に仏陀を求めて、かえって、獣王の精を受けてしまったのか、何者といえ、その前には立ち難いほどな猛気である。
衛士たちは、手玉に取られて、八方へ投げ飛ばされた。
兵衛尉ひょうえのじょう 公朝きみとも は、大喝だいかつ して、
ひる むな。脚をとれ」
と、部下を励まして、文覚の上体へ、武者ぶりついた。
文覚は、左にかん を振り、右の手に、小刀を抜いて、
「刺すぞっ」
と、おど した。
蹴ひらいた勢いで、
「一に聖裁にあり、悲願のすじ、聴許、賜わるや否、聞かせ給え」
わらわらっと、殿でん の、きざはし へと、近づきかけた。
安藤武者右宗みぎむね が、それをうしろから組みとめた。
文覚は、右宗のひじ を小刀で刺した。右宗は、なお血のしたたる腕を解かない。そのうちに、公朝きみとも や兵士の大勢が、文覚の脚を捕り、腕をとらえ、やっとのことで、組み伏せた。
まり のように、縄目なわめ をかけ、廷尉ていいごくくだ した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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