〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/27 (木)  じゃくたまご (五)

風浪は、もう立たない。
幾多の船は、港内に安らかな夢をつないだ。そして、まもなく宋船の初入港を、ここに見た。
宋船は、宋の明州みんしゅう から法皇へ贈って来た進物と刺史しし の信書とを せていた。
これが、都へ届けられると、諸卿の間に、ごうごうたる議論がわいた。
信書の中に 「たまう 」 という文字がある。
日本国王に賜ういうのだ。 「無礼である」 「国体の威信にかかわる」 「わけて、宋の一刺史のごときが」 と、殿上の物議は、これを受ける、受けないで、毎日の評議であった。清原きよはらの 頼業よりなり などは、大論文を書いて 「受くべからず」 と、上奏した。
公卿たちの世論よろん は、すでに、
「突っ返せ」
と、いうことに決まった。
法皇もそれを 「もっともなり」 と思われた。ただちに、福原へ返送せよと、手続きをお命じになった。すると、西八条にあって、かくと聞いた入道相国は、即刻、院へ伺候して、
「なぜ、お返しになるのですか。風俗習慣、おのずから違う異国のことです。宋皇帝の親書とでも申すなら、なお、非礼もゆるがせになりますまいが、多寡が明州みんしゅう の一知事の書簡、彼が、賜うと書いて来たなら、われからも、法皇より下賜し給う ── と返書してやればよいでしょう。そして、物にはまた、物を贈ってやればよい。どうして、諸卿にはそう小さく刺々とげとげ しい理屈ばかりを楽しむのか」
と、御簾ぎょれん を仰いで奏し、また、左右に居流れている近臣や学者たちの、むずかしい顔へ向かっても言った。
「・・・・・」
満座、答えはない。
清盛は、笑い出した。
「── むかし、長和四年ごろ、宋の商人が、一つつがいの孔雀くじゃく を献上したので、天覧あらせられた後、関白道長の屋敷にこれを飼わしめ給い、やがてその巣に、卵が生まれると、孔雀を見ばや、卵を見ばやと、貴賎きせん 群集したとか聞いております。── 申さばそれは、わがちょう の人びとが、初めて孔雀を知り、孔雀が卵を産むことを知った一つの智識を得たことです。・・・・朝廷、百姓にいたるまで、今日、わが邦では、仏法をあがめ、仏果を、至上の願いとしていますが、それは、どこから伝来したでしょうか。そのほか、典礼衣食てんれいいしょく家居什器かきょじゅうき にいたるまで、唐朝とうちょう 以来、海を越えてわれわれが得たものは、寡少かしょう ではありますまい。・・・・みな、孔雀の卵です。文化の卵というものです。文化は水と同じように、高い所から低きに流れ ── 高きをうけて、相互の低きを満たしあうもの。いわば天の作用で、人為ばかりのものではない」
「・・・・・」
「宋皇帝にもあらぬ名もなき一刺史が、賜うなどと書いて来たのは、思うに、天がこの国へ賜えるものと、清盛には考えられる。この国を愛する天が人をして国へ賜ったものを、返すなどとはもったいない。これもまた孔雀の卵よ。孔雀はかえ らなくても、文化は孵る。土をもって、抱いては孵し、抱いては孵すうちに、大きな調和がこの国のものとして無限なものを産み次いで行く。・・・・清盛が福原山荘の夢もただそれにある。うみ ずるような愚論には賛同は出来ぬ」
彼が、衆の中で、こんなにもしゃべったのは、初めてである。
築港にそそいで来た彼の十年の情熱が言わせたものであろう。その情熱にも、昨今の入道相国の威に対しても、それへ反駁はんばく しうる者は、あり得ない。
宋からの進物は、受納ときまった。
法皇には、清盛をして、その返翰へんかん と、そして多くの染革や砂金を、宋国へ贈らせ給うた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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