風浪は、もう立たない。 幾多の船は、港内に安らかな夢をつないだ。そして、まもなく宋船の初入港を、ここに見た。 宋船は、宋の明州
から法皇へ贈って来た進物と刺史しし
の信書とを載の せていた。 これが、都へ届けられると、諸卿の間に、ごうごうたる議論がわいた。 信書の中に
「賜たまう 」 という文字がある。 日本国王に賜ういうのだ。
「無礼である」 「国体の威信にかかわる」 「わけて、宋の一刺史のごときが」 と、殿上の物議は、これを受ける、受けないで、毎日の評議であった。清原きよはらの
頼業よりなり などは、大論文を書いて
「受くべからず」 と、上奏した。 公卿たちの世論よろん
は、すでに、 「突っ返せ」 と、いうことに決まった。 法皇もそれを 「もっともなり」 と思われた。ただちに、福原へ返送せよと、手続きをお命じになった。すると、西八条にあって、かくと聞いた入道相国は、即刻、院へ伺候して、 「なぜ、お返しになるのですか。風俗習慣、おのずから違う異国のことです。宋皇帝の親書とでも申すなら、なお、非礼もゆるがせになりますまいが、多寡が明州みんしゅう
の一知事の書簡、彼が、賜うと書いて来たなら、われからも、法皇より下賜し給う ── と返書してやればよいでしょう。そして、物にはまた、物を贈ってやればよい。どうして、諸卿にはそう小さく刺々とげとげ
しい理屈ばかりを楽しむのか」 と、御簾ぎょれん
を仰いで奏し、また、左右に居流れている近臣や学者たちの、むずかしい顔へ向かっても言った。 「・・・・・」 満座、答えはない。 清盛は、笑い出した。 「──
むかし、長和四年ごろ、宋の商人が、一つつがいの孔雀くじゃく
を献上したので、天覧あらせられた後、関白道長の屋敷にこれを飼わしめ給い、やがてその巣に、卵が生まれると、孔雀を見ばや、卵を見ばやと、貴賎きせん
群集したとか聞いております。── 申さばそれは、わが朝ちょう
の人びとが、初めて孔雀を知り、孔雀が卵を産むことを知った一つの智識を得たことです。・・・・朝廷、百姓にいたるまで、今日、わが邦では、仏法をあがめ、仏果を、至上の願いとしていますが、それは、どこから伝来したでしょうか。そのほか、典礼衣食てんれいいしょく
、家居什器かきょじゅうき にいたるまで、唐朝とうちょう
以来、海を越えてわれわれが得たものは、寡少かしょう
ではありますまい。・・・・みな、孔雀の卵です。文化の卵というものです。文化は水と同じように、高い所から低きに流れ ── 高きをうけて、相互の低きを満たしあうもの。いわば天の作用で、人為ばかりのものではない」 「・・・・・」 「宋皇帝にもあらぬ名もなき一刺史が、賜うなどと書いて来たのは、思うに、天がこの国へ賜えるものと、清盛には考えられる。この国を愛する天が人をして国へ賜ったものを、返すなどとはもったいない。これもまた孔雀の卵よ。孔雀は孵かえ
らなくても、文化は孵る。土をもって、抱いては孵し、抱いては孵すうちに、大きな調和がこの国のものとして無限なものを産み次いで行く。・・・・清盛が福原山荘の夢もただそれにある。海うみ
の門と を鎖と
ずるような愚論には賛同は出来ぬ」 彼が、衆の中で、こんなにもしゃべったのは、初めてである。 築港にそそいで来た彼の十年の情熱が言わせたものであろう。その情熱にも、昨今の入道相国の威に対しても、それへ反駁はんばく
しうる者は、あり得ない。 宋からの進物は、受納ときまった。 法皇には、清盛をして、その返翰へんかん
と、そして多くの染革や砂金を、宋国へ贈らせ給うた。 |