明けて、正月三日には、かねがね、予定されていた天皇御元服の御式が行われた。 主上高倉は、御十一歳におなりになる。 加冠の役は、摂政太政大臣基房。 理髪は
── 左大臣経宗 。 御介添ごかいぞえ
。内蔵頭くらのかみ 親信ちかのぶ
。 行事。右衛門うえもんの
権佐光雅ごんのすけみつまさ 。高階たかしなの
仲基なかもと 。 御装束ごしょうぞく
。左中弁長方ながまさ 。 など、式典は終日にわたる盛儀であり、こういう晴れの日に、よいお役をうけたまわることは、殿上人一代の誉れともしていた。 清盛の弟時忠が、 (平家に非ずんば人にあらず) と言ったというので、そのことを、骨髄こつずい
に刻み込んでいる公卿たちは、こいう時こそとばかり、藤原一門の存在を誇った。故実こじつ
や作法さほう をやかましく言った。そして、平家の殿上たちは、もの知らずのように無視された。 が、基房は、 「余りに、それでも・・・・」 と、時忠の末弟、平ノ親信ひとりを、当日、陛下の御冠の捧持役ほうじやく
に推挙した。 ひそかに、清盛への心づかいと、礼の意味を含んでいたのは言うまでもない。 そして、彼は、御式事の一切が終わると、まもなく、太政大臣を罷や
めた。 四月、改元となった。 この年から承安じょうあん
元年となる。 五月下旬、法皇は、熊野へ御幸され、また十月には、建春門院けんしゅんもんいん
滋子しげこ をお連れになって、清盛の福原山荘へ遊ばれた。 こういう間に、法皇と清盛との間に、かねての御内談がすすんだものと思われる。 清盛の一女徳子は、天皇の女御にょご
として入内し、明けて承安二年の春、中宮となった。 天皇は御十二歳、徳子は十八であった。 ものの勢いは、時に、好まないでも、行くところまで行ってしまう。今や平家の勢いはそれであった。たれがそうするのでもない。咲き盛る花か、昇天の旭日に似ていた。 入道相国のうわさはもちろん、平家の陰口をきくことさえ、自然おそれた。 「赤直垂あかひたたれ
の禿童かむろ が何百人となく、町を歩いて、見る眼め
嗅か ぐ鼻を、働かせているぞ。禿童と思うて、うかつなことを口すべらすな」 たれともなく言うのである。 けれどそんな禿童を、じっさいには、たれも眼に見た者は居ない。 しかし確実に、恐怖は存在した。それは、院の側近者あたりから撒ま
かれるあらぬ臆説おくせつ か、または、悪意な中傷によるものであった。 清盛は、むしろ、そういうことに、無頓着むとんじゃく
なくらいである。 見ようによっては、この盛運と順調に、慢じていると言ってよいほど、公卿輩ばら
の小細工こざいく や、ちまたの表情などは、意にかけていない。 そうして、ついに念願の大輪田の築港も、承安三年には、ほぼその完成を見ていた。 まず沖に、経きょう
ケ島しま を現出させ、その島を徐々にのばして、陸とつなぐことに成功したのである。
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