〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/27 (木)  じゃくたまご (四)

明けて、正月三日には、かねがね、予定されていた天皇御元服の御式が行われた。
主上高倉は、御十一歳におなりになる。
加冠の役は、摂政太政大臣基房。
理髪は ── 左大臣経宗つねむね
御介添ごかいぞえ内蔵頭くらのかみ 親信ちかのぶ
行事。右衛門うえもんの 権佐光雅ごんのすけみつまさ高階たかしなの 仲基なかもと
御装束ごしょうぞく 。左中弁長方ながまさ
など、式典は終日にわたる盛儀であり、こういう晴れの日に、よいお役をうけたまわることは、殿上人一代の誉れともしていた。
清盛の弟時忠が、
(平家に非ずんば人にあらず)
と言ったというので、そのことを、骨髄こつずい に刻み込んでいる公卿たちは、こいう時こそとばかり、藤原一門の存在を誇った。故実こじつ作法さほう をやかましく言った。そして、平家の殿上たちは、もの知らずのように無視された。
が、基房は、
「余りに、それでも・・・・」
と、時忠の末弟、平ノ親信ひとりを、当日、陛下の御冠の捧持役ほうじやく に推挙した。
ひそかに、清盛への心づかいと、礼の意味を含んでいたのは言うまでもない。
そして、彼は、御式事の一切が終わると、まもなく、太政大臣を めた。
四月、改元となった。
この年から承安じょうあん 元年となる。
五月下旬、法皇は、熊野へ御幸され、また十月には、建春門院けんしゅんもんいん 滋子しげこ をお連れになって、清盛の福原山荘へ遊ばれた。
こういう間に、法皇と清盛との間に、かねての御内談がすすんだものと思われる。
清盛の一女徳子は、天皇の女御にょご として入内し、明けて承安二年の春、中宮となった。
天皇は御十二歳、徳子は十八であった。
ものの勢いは、時に、好まないでも、行くところまで行ってしまう。今や平家の勢いはそれであった。たれがそうするのでもない。咲き盛る花か、昇天の旭日に似ていた。
入道相国のうわさはもちろん、平家の陰口をきくことさえ、自然おそれた。
赤直垂あかひたたれ禿童かむろ が何百人となく、町を歩いて、見る ぐ鼻を、働かせているぞ。禿童と思うて、うかつなことを口すべらすな」
たれともなく言うのである。
けれどそんな禿童を、じっさいには、たれも眼に見た者は居ない。
しかし確実に、恐怖は存在した。それは、院の側近者あたりから かれるあらぬ臆説おくせつ か、または、悪意な中傷によるものであった。
清盛は、むしろ、そういうことに、無頓着むとんじゃく なくらいである。
見ようによっては、この盛運と順調に、慢じていると言ってよいほど、公卿ばら小細工こざいく や、ちまたの表情などは、意にかけていない。
そうして、ついに念願の大輪田の築港も、承安三年には、ほぼその完成を見ていた。
まず沖に、きょうしま を現出させ、その島を徐々にのばして、陸とつなぐことに成功したのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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