たまたま、基房の相続問題が起こると、その荘園に対して、清盛も、食指を動かした。また、それをすすめて、 (先規を調べると、盛子様のお子にも、当然、所領の一半は、おp継ぎになる御資格があるもののようです。基房公おひとりが、兄君の遺産をそっくり御継承になるのは、ちと、心得ません) と、何やかや、献策したのは、例のあけはな
の伴卜ばんぼく である。 伴卜は、養子の五条那綱に、あらゆる先規せんき
前例ぜんれい を調べさせた。そして、資料と口実をそろえた。 清盛はそれを持って、法皇にお諮はか
りした。 (基実に子がある以上、相伝の所領は分けて継ぐのがよい。正しきに従うべきである) 法皇のお心も、そこにあったので、ついに氏ノ長者の代々相伝の領国は、この時、半分に減ってしまった。そしてあとの半分は、当然、基実の未亡人盛子
── 清盛のむすめのものになった。 もし基房が、 (そんな先規はない。不合理である) と、全藤原氏の結束をもって、敢然と、反対して来たら、問題が問題だし、法皇も中に立っておられるので、清盛の欲望は通らなかったに違いない。 が、まるで無抵抗に、基房は唯々いい
として、相伝の領国を、半分受けて、甘んじてしまった。 (憐あわ
れむべき名門の子) と、清盛はその時も思ったことがあった。そして、以来、基房を蔭ながら庇かば
って来た。 けれど基房の弟、九条兼実は、深くそのことを怨うら
んでいた。 兼実は賢いので、院の側近者みたいに、あらわな反抗は表に見せないが、蔭では、 (たとえ、どんな誼よし
みを示して来ても、自分は清盛を信じない。いや平家そのものが性来きらいだ。成り上がりの武人らと、殿上の交わりとは、心外の至りだが ── ただ時勢の方便に従うのみ) と、言っていた。 そうした同族間の感情は、基房の大饗たいきょう
の招きにも現れた。新たに、栄職につくと、宴を張って、知人を呼ぶ慣なら
わしである。その太政大臣の就任披露の大饗は、年の暮れであったせいもあろうが、 「ちと、障さわ
りがあって」 と、上卿たちも、欠席を答えて来るし、不参の客が多かった。 弟の兼実も、また、 「このところ、連日のように、元服の御式ぎょしき
の予習で疲れたせいか、脚気かっけ
の気味で・・・・」 と、所労しょろう
を言い立てて来なかった。 予習で疲れているのは兼実ひとりではない。それに 「冬の脚気とは ──」 と、基房はおもしろくない顔をした。大饗は淋さび
しいものになってしまった。とはいえ、それは基房への面当つらあ
てではなく、藤原氏の対平家感情の女々めめ
しい表情の一つに過ぎないのであった。 |