〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/25 (火) きようしま らい (一)

重盛の子資盛の車と、摂政基房の車とが、猪熊いのくまつじ で、大喧嘩をやったうわさは、福原にも、聞こえていた。
初めの、七月の事件では、資盛の車が、理由なく、摂政家の随身たちに、恥辱をうけた ── という風に伝わっていた。
もちろん、清盛は、耳にした。
彼の左右の者は、入道相国が、どんな赫怒かくど を示されるやらと、内心、恟々きょうきょう としていたところが、意外にも清盛は、家臣にさえ、まが悪そうにつぶやいた。
「・・・・孫やら、めい やら、年とともに、退屈者がおいおいと えて困るよ。およそは、資盛の非礼ときわ まったり。摂政殿も大人気ないが、わっぱ の思い上がりもよろしくない」
そしてまた、口のうち で、
「苦労知らずの危うさよ」
と、言って、ふと、さび しげな顔色をたた えた。
後白河法皇の福原御幸は、その後であった。
清盛からお誘い申し上げたことであるのはいうまでもない。先年の御幸は築港の工事を御覧になることと、千僧供養の御参会ごさんえ であったが、この秋には、宋美人の姉妹が来ているので、宋人の舞をお目にかけましょう ── と清盛から申し上げてある。
法皇御自身も、臣下も、宋美人を見るということに、大きな好奇心を持って来たらしい。
清盛は、雪ノ御所にお迎えして、八名の宋人を庭上にならべ、また、姉妹の宋美人に、舞を舞わせた。
髪、化粧のしかた、衣裳いしょう挙止きよし までが、都人には、めずらしかった。直接、異国の民を御覧になったのは、法皇も、お初めてであった。
が、清盛は、これが目的ではない。
宋国文化の一片を、御認識に供えたところで、かねて御内諾のことの実現を ── それとなく迫るためであった。
「忘れてはおらぬよ」
法皇は、微苦笑をゆが められて ──
「このところ、摂政がまた、平家に対して、すこぶるおもしろからぬ様子に見ゆるが・・・・近いうちに、なんとか、違和を解いて、よろしきように、運ぶであろう」
と、その辺の反対に、お気兼ねでもしているような仰せである。
清盛は心のうちで 「ははあ、孫の資盛と、摂政殿との喧嘩のことを、仰っしゃっているのだな・・・・」 と、すぐそうしたことも、法皇のお口にかかると、ひとつの逃げ口上に用いられるとは見抜いていたが、彼は、わざとそれには触れなかった。
「人智人力には、限りがある。国帑こくど をもって助けることも考えておくが、なお、仏法の功力なくては成就しまい。・・・・つねに、名僧の祈祷きとう を怠らず、お許もいよいよ信心をみが かれよ」
法皇は、お連れになって来た一僧を、そにために ── という叡慮えいりょ であろう。浜の法華道場の常住じょうじゅう に残して、都へお帰りになった。
例の九条兼実は、このお供には加わっていない。朝廷の右大臣として、院のこのお物好ものず きを、苦々しくも思い、また、清盛のお誘いを、怪しからぬことと、見ていたようである。
その兼実の日記玉葉ぎょくよう の九月二十日の条には、

── 法皇、入道相国ノ福原ノ山荘ヘ向ハシメ給フ。コレ宋人来着、叡覧ノ為ト云フ
延喜以来、我ガテウ未曾有ミゾウ ノ事ナリ。天魔ノ ス所カ。
と、書いている。
兼実は若かった。けれど頭脳は、故実こじつ 旧風きゅうふう墨守ぼくしゅ から出ていない。
清盛はすでに初老をこえていた。孫も多く、身も出家していた。けれど頭脳は、際限なく若々しい。
身は、出家して、浄海入道とも言われながら、心は、そんなにも若く、そして、文化の吸収には、異朝だの我が朝だのという狭い考え方を知らない彼の存在は ── ひとり九条兼実だけでなく、同類同質の公卿たちからは、ひとしく、天魔と見えたに違いない。
この辺からの、彼の一言一行は、そうした旧勢力の人びとから、いよいよ、天魔の所行しょぎょう といわれ、平家の悪行と言われ始めた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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