重盛の子資盛の車と、摂政基房の車とが、猪熊
の辻つじ で、大喧嘩をやったうわさは、福原にも、聞こえていた。 初めの、七月の事件では、資盛の車が、理由なく、摂政家の随身たちに、恥辱をうけた
── という風に伝わっていた。 もちろん、清盛は、耳にした。 彼の左右の者は、入道相国が、どんな赫怒かくど
を示されるやらと、内心、恟々きょうきょう
としていたところが、意外にも清盛は、家臣にさえ、まが悪そうにつぶやいた。 「・・・・孫やら、姪めい
やら、年とともに、退屈者がおいおいと殖ふ
えて困るよ。およそは、資盛の非礼と極きわ
まったり。摂政殿も大人気ないが、童わっぱ
の思い上がりもよろしくない」 そしてまた、口の裡うち
で、 「苦労知らずの危うさよ」 と、言って、ふと、淋さび
しげな顔色を湛たた えた。 後白河法皇の福原御幸は、その後であった。 清盛からお誘い申し上げたことであるのはいうまでもない。先年の御幸は築港の工事を御覧になることと、千僧供養の御参会ごさんえ
であったが、この秋には、宋美人の姉妹が来ているので、宋人の舞をお目にかけましょう ── と清盛から申し上げてある。 法皇御自身も、臣下も、宋美人を見るということに、大きな好奇心を持って来たらしい。 清盛は、雪ノ御所にお迎えして、八名の宋人を庭上にならべ、また、姉妹の宋美人に、舞を舞わせた。 髪、化粧のしかた、衣裳いしょう
の挙止きよし までが、都人には、めずらしかった。直接、異国の民を御覧になったのは、法皇も、お初めてであった。 が、清盛は、これが目的ではない。 宋国文化の一片を、御認識に供えたところで、かねて御内諾のことの実現を
── それとなく迫るためであった。 「忘れてはおらぬよ」 法皇は、微苦笑を歪ゆが
められて ── 「このところ、摂政がまた、平家に対して、すこぶるおもしろからぬ様子に見ゆるが・・・・近いうちに、なんとか、違和を解いて、よろしきように、運ぶであろう」 と、その辺の反対に、お気兼ねでもしているような仰せである。 清盛は心のうちで
「ははあ、孫の資盛と、摂政殿との喧嘩のことを、仰っしゃっているのだな・・・・」 と、すぐそうしたことも、法皇のお口にかかると、ひとつの逃げ口上に用いられるとは見抜いていたが、彼は、わざとそれには触れなかった。 「人智人力には、限りがある。国帑こくど
をもって助けることも考えておくが、なお、仏法の功力なくては成就しまい。・・・・つねに、名僧の祈祷きとう
を怠らず、お許もいよいよ信心を研みが
かれよ」 法皇は、お連れになって来た一僧を、そにために ── という叡慮えいりょ
であろう。浜の法華道場の常住じょうじゅう
に残して、都へお帰りになった。 例の九条兼実は、このお供には加わっていない。朝廷の右大臣として、院のこのお物好ものず
きを、苦々しくも思い、また、清盛のお誘いを、怪しからぬことと、見ていたようである。 その兼実の日記玉葉ぎょくよう
の九月二十日の条には、 |