阿波民部や日向太郎などは、奉行として、ひどく期待はずれな報告を、清盛の前にもたらしたが、清盛はそれに対して、 「そうか。いや、そうだろうな」 と、むしろ肯定的な口吻
だった。 ── ということは、土木の知識において、彼我の間に、そう懸隔がなかった証明でもあるし、奉行や部下の努力にも、欠けることがなかったのだと、清盛は、それを満足としたのである。 「この上は、無用の迷いを持つな。お汝こと
汝こと らの所信をそのまますすめろ。清盛もさらに一念を堅固にしよう」 そう励まして、彼は考え込んでいたが、ただ一つ、意見をつけ加えた。 「──
年々の風浪に、わららの人力が潰つい
えてしまうのは、要するに、その程度の微力しか積み得ていないための、明らかな敗北なのだ。── 申さば、工事の進捗しんちょく
がのろいせいだ。── およそ暴風の襲来は、夏から秋の季節と決まっている。晩秋以後、冬中、春中、そして暴風期の来るまでの一年間に、九分通りの工事をはかどってしまえば、必ずあとは成就じょうじゅ
するにちがいない。・・・・そうでないか、両人」 「お言葉の通りでありますが」 「人間が足らぬ、私財が足らぬ、金が足らぬというのだろう。案じるな、その儀は」 清盛は、非常な自信ぶりであった。 これまでは、私力といってよい、一家の経営であったため、いかに清盛の力でも、思うに任せない点がある。 しかし、その悩みは、やがて国家の経営に移されることによって、解決される見込みであった。 いつか、彼が、虫一斗の大患をわずらった病中のことである。 西八条へのお見舞いに御幸された後白河法皇には、そのおり、清盛の難事業を聞こしめされて、彼の希望する築港工事の国営に、
「よろしい」 という御内諾をお与えになっている。 清盛は、お誓いを、かたく信じた。今でも、その御一言を、疑ってはいない。 けれど、あの病中から、もう二年余は、過ぎていた。そして、いまだに国費の補助も、国営化も実現されてはいなかった。 もちろん、そのための
“太政官符だじょうかんぷ ”
の発令を仰ぐ出願書は、とうに清盛から法皇のお手もとまで、提出してある。── が、さいごの御聴許が出ないのだ。 法皇は、じつに、お言葉が巧みである。清盛とお会いになって、約束を迫られても、つねに、うまくそこをお交か
わしになってしまう。── 摂関家の異論とか、宮廷の財政とか、地方の貢税こいうぜい
のとどこおりとか、いくらでも、そのおりおりに、御口実をかえて、言を左右に遊ばすのである。 到底、こいう才気にかけては、清盛は、法皇の敵手てきしゅ
でない。 ときには、内心、彼らしい業腹ごうはら
をたててもみる。けれど、法皇の仰っしゃる道理のまえには屈せざるを得なかった。 「時を待て」 と仰っしゃるままに、正直に、時を待ち、しかも孜々しし
営々えいえい と、私財で工事を続けて来た彼であった。 |