〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/24 (月) そう じん (二)

── 従来、絵画や想像の上だけでしか知らなかった、いわゆる “唐美人とうびじん ” の生きている実物を見たのは、福原地方の住民には始めてであった。いや、福原へ移住している都人みやこびと でさえ、かつて異国の女性を見たことがない。
そこで彼らの使命であった築港献策の結果よりも、巷間こうかん の話題は、美しい姉妹の宋美人そうびじん にもちきっていた。
宋人のたちの宿坊には、輪田ノ松原の燈籠堂とうろうどう があてがわれた。
ここは先年、清盛が、後白河法皇を初めてこの地へお迎えしたとき、持経者一千人を集めて ── 千僧供養とよぶ万燈会まんどうえ を修した所である。近くには、法華道場やら七宮神社やら夢野弁天の堂塔などもあって、夜となれば、燈籠堂の灯が、海をいろど った。
(もうこここは片田舎ではない。ゆくゆくは清盛も住み、異朝の商人あきゆうど も群れる日本の海の都だぞ。わび しくばかりするな。夜は努めて灯の数を増し、昼も賑々にぎにぎ と市の盛りを心がけよ。── 諸国から集まる遊芸人もよし、遊女あそびめ もよし、物売りも、凡下ぼんげ博奕ばくち なども、あまりには、規則ずくめに取り締まるな)
清盛は、下吏に対して、こう言い含めてある。法は、三章に限っていた。
  人を斬る者は、斬る
  盗んだものは、百倍をつぐな わせる
  怠け者、違和ゐわ を企む者は追放する
そうした政策から見ても、清盛がここに燈籠堂を建立したのは、暗い住民と、働く者の心に、燈火の賑わいを点じるためのものでもあった。
またよく、後白河法皇をお迎えしては、万燈会の修法したりすることも、何よりは、大工事に気勢を添え、また、土地の殷賑いんしん を加えるためであったろう。
今日この頃また、この燈籠堂に、宋人の一行が宿泊し、そして姉妹の宋美人も、そこにいたので、松原のおちこちには、物売りがたな を並べたり、旅芸人の人寄せが見えたり、何しろよく人が動いていた。
その間に。
宋人たちは、幾たびも、船で海上を視察し、また法華道場で、工事の協議などをくり返しているふうであったが、阿波民部成吉に言わせると、
「得るところは、何もない。彼らの知識は、自分たちが、すでに試みたことばかりだ」
と、失望の様子であった。
そして結果は、その通りに、雪ノ御所へ報告された。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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