「福原へ行けば、飢えることはない。輪田
ノ浜には、いくらでも仕事がある」 天災があると、流民が出た。家や田を流されてしまうからである。 何十年ぶりという嘉応二年夏の大風水害のあと、機内や山陽地方の流民は、期せずして、大輪田ノ浜へ集まって来た。 そして
「石かつぎでも」 「船夫ふなこ
にでも ── 」 と、職を求める浮浪の男女が、何千という数にのぼった。 ところが、ここも台風の他ではない。 応保おうほう
の年以来、数年にわたって、ようやく、浪間に石面いしづら
が見える程にまで埋め立てて来た半島形の線が、一夜の狂風と怒涛どとう
で、何の痕跡もないただの青海原と化し去っていた。 「・・・・まるで、賽さい
ノ河原の石積みだ」 奉行の日向太郎通良みちよし
と、阿波民部の二人が、憮然ぶぜん
と、腕組みをしたまま、海面をながめている姿を ── 数千の人夫も、なすことなく、遠くの方で、見ていたものであった。 台風の来襲は、毎年といってよい。 年々、こんな繰り返しを見ていては、百年たっても、築港は完成されないだろう。人力や物資の費つい
えも莫大ばくだい である。 「なんとか、工事の基本と進め方も、かえねばなるまい」 というのが、この秋、両奉行の直面していた悩みであった。 九州の原田種直は、大宰府にいる多くの宋人のうちから、この方面の知識と経験者八名を選んで、先ごろ、福原へ上って来た。 大宰府には、中華の亡命者が少なくない。大陸にも大きな変化が起こって、唐朝とうちょう
が亡んだあと、南宋の新たな政府が興っていた。志を失った多くの亡命者は、日本に余生を求めて来たが、しかし、その住居は、九州の一端に限られていたので、 「──
宋人が来る。宋人が来た」 と伝えられると、彼らに気の毒なほど、彼らの行く先々さきざき
に人だかりがした。 ことに、こんど種直が連れて来た八名のうちの一老人は、自分の孫娘だという姉妹ふたり
の妙齢な女子を伴っていた。 |