車争いの一件は、従来、史上に伝えられて来たところとは、このように違っている。 これまで、信じられて来た史実では、基房に恥辱を与えた
“髻切 り” の仕返しは、清盛がやらせたものだとなっていた。 孫の資盛が、路上で受けた恥に、入道が赫怒かくど
して、それに数倍の報復をさせたというのが、定説とされて来た。 けれど、この前後、清盛は、洛中にいなかった。福原の別荘にいて、ほとんど、これに関知した事実はない。 その証拠には、前月の末に、後白河法皇が、彼の福原へ御幸されている。また、十月末には、法皇の使者が、福原へ行っている。 もし、武士をけしかけて、やらせた者があるとすれば、それは重盛である。 兼実の日記とともに、確かな記録と信じてよい
“愚管抄ぐかんしょう ” には、清盛のしたことではなく、事実は、重盛がやらせたことであるとして
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