ちょうど、摂政基房の車が、大炊
御門みかど 堀川の辺りまで来かかると、附近の木蔭や、物蔭にたたずんでいたたくさんな武者が、わあっと、声を合わせて、ふいに車へ向かって、襲って来た。 舎人とねり
や雑色などは、前例もあるので、それと見るや 「来たぞ」 とばかり、われがちに、逃げ散ってしまう。 残ったのは、前駆さきが
けの侍六騎と、わずかな随身、車添いなどの、十数名に過ぎない。 一方の伏勢はといえば、二百人以上にも思われた。たちまち、包囲されて、前駆けの六騎は、馬から引きずり降ろされ、袋叩きにされたあげく、なんと、その一人一人を手籠てごめ
にして、髪のもとどりを、みな切っては捨て、切手は捨てるという乱暴さ。 ほかの随身や舎人たちでも、逃げ遅れたのは、ことごとく捕まって、尻しり
を叩かれ、足の下に踏みつけれれ、同じような侮辱に会ったというのである。 「あな、傷いた
まし・・・・。身は摂?せつろく
の家に生まれ、任を摂政の重きにうけながら、路上において、かかる辱はずかし
めに会い給うとは」 兼実は、眼底に、悲涙をたぎらせた。 彼はこの時二十二だった。公卿とて、若い血は持っている。── 兼実が、関白月輪殿つきのわ
といわれた晩年までの ── 、平家ぎらいと、平家打倒の誓いは、実にこの日からであったといってよい。 すぐ、兄を見舞うべく、基房が隠れ込んだ閑院の第てい
へ、車を遣や った。そこには、先に来ていた藤原資長が一人居たきりであった。けれど、基房は、大きな衝撃と、悲嘆にくるまれていたせいだろう。
「面目ない」 ・・・・とのみ取次がせて、資長にも、兼実にも、ついに顔を見せなかった。 兼実は、むなしく家に帰ったが、思いは、兄と一つであったろう。その夜、日記の終わりに、彼は、こう痛嘆を書きとどめた。 |