それでもなお、彼は、世評を信じて、重盛よりは、清盛を恐れていた。やがては、何かの形で、清盛からこの報復があるものと、畏怖
していた。 同月の十六日。 基房はどうしても、法成寺へ出向かなければならなかった。 ところが、物見にやった下部のことばによると、 「二条や京極辺りの道筋に、武士どもが数多あまた
、姿を見せております。ほかに、武士が群れをなすような行事ぎょうじ
があるとも見えません。どうも、何やら物騒に思われますが」 とのことだったので、ついにその日の外出は、中止してしまった。 こえて、十月二十一日のことである。 その日は、主上の御元服について、議定の予定が、前から約束されていた。 ほかならぬ会議。また摂政の重任でもある。 この日だけは、どうあろうと、欠席は出来ない。 基房は、度胸を決めて、参内の途と
についた。 右大臣九条兼実は、基房の弟である。 その兼実の日記 “玉葉” には、こう見える。 |