〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/23 (日)  じょう かね ざね にっ (三)

「あの温厚な小松殿が、このたびのことだけには、よほどお怒りらしく見える。客に会えば、心外なと、お口にもらしておられるそうな」
基房の館へ来て、わざわざ、こう教えてくれた者さえある。
「なんとか、大事にいたらぬうちに、御善処をなされては」 と、言外の注意をほのめかして言う。
何しろ、ときめく平家だ。太政入道殿のお孫だ。とう の重盛そのひとは、猛からず、柔和すぎず、まことに中庸を得た人物であると、後白河法皇なども清盛以上に、 めておいでになるから ── なんとか誤解は溶けようけれど、こわ いのは、入道殿である。
「ああ、・・・・あとのたた りこそ」
と、基房は、ふるえあがった。
「相手をこそ見て、物も言え、いさか いもなせ。人もあろうに、太政入道の孫へ向かって、なんたるうつけをしたものぞ」
と、家の随身や舎人とねり たちを見ては、あの翌日から、がみがみ怒鳴りとおしの彼であった。
「── あほうといおうか、なんといおうか。わざわざ主人の身に、わざわ を招き求めて、それがそも、なんの鬱憤うっぷん ばらしぞや。憎い舎人どもめ。腹立たしい牛飼めが」
しかし、内輪でいくら召使をののしってみてもはじまらない。── それらの下手人を勘当するなり、または、から めて、小松殿へ送られたら、小松殿のお怒りもとけ、自然、入道殿のお耳にもはいらずに、お びがすむのではあるまいか。── こう教えたのは、右少弁兼光であった。
「ようぞ、思いつかれた。では兼光、お許がその使いに立ってくれるか」
「御同意なれば、参りましょう」
「幾重にも、 に代って、詫びて来い」
基房は、ややまゆ をひらいた。そして、随身二名、舎人数名、牛飼までを、数珠じゅず つなぎにして、小松谷へ差し立ててやった。
やがて、使者の右少弁兼光は、手もちぶさたで返って来た。
連れて行った召使の下手人は、すべてそのまま、連れ戻った。
「いかがしたぞ、兼光」
「小松殿には、お風邪かぜ とやらで、ついに、お会いくださいませぬ。・・・・が、家人けにん を通じてのおことばには、かかる雑人ぞうにん どもに、用はない。下部しもべ の責めを、主人が負うて出た話はよく聞くが、主人のとが を、部下が負うて出るとは心得ぬ。── いずれにせよ、連れ戻り候えとのみで、ほかに、おこた えもございまず、やむなく引き退って参りました」
基房は、また、滅入めい ってしまった。かえって、恥をかきにやったような結果に終わった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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