ただ習慣というだけでなく、そのころ、廷臣間の礼儀には、非常に厳格な規定があった。 かつて、宮中の菊の御宴
で、時の関白忠通ただみち と悪あく
左府さふ 頼長とが、その席次のことで、大議論をかもしたことがある。あれなど一例といってよい。 たとえば、途上礼とじょうれい
にしても、参議以下の公卿が、摂政関白の車に出会ったときは、車の牛を轅ながえ
から解いて、立礼するのが、正しいとされている。 保元、平治の合戦の後、世態も人の心も変わって来たので、そういう作法もだいぶ略礼を執るようにはなっていた。──
けれどなお、摂政車が通過するときは、道を避けて、扈従こじゅう
の者の平伏はもちろんのこと、車上の主人も、謹んでこれを見送るぐらいな礼儀は決して失われてはいない。三歳の童子もわきまえているはずの、時代の常識とされていた。 ところが、である。 いま、前の方から進んで来た女車の列には、そんな憚はばか
りは少しも見えない。 こなたの摂政車が、徐々に近づいて行くと、あなたの女車は、猪熊いのくま
の大路も狭しとばかり、道の真ん中を押し通して来る。 二十間けん
─ 十五間 ─ 十間 ─ 七、八間 とその間隔は、いよいよ接近して来たが、いっこうに避けるふうもない。 あわや、先駈けの者と先駈けの者、牛車と牛車とが、鼻づらを付き合わすばかりになっても、なお先方の女車の列は、 (──
避けるなら、そっちで避けろ) といい合わせているような様子であった。 そこで、こらえかねた基房の随身たちは、わらわらと、前へ出て、 「傍かたわ
らへ、寄り候え。道を避よ けられい」 と、手を振って、制止した。 ──
が、なお、車はそのまま寄って来た。 基房の随身の一人は、顔を燃やして、 「つんぼか!」 と、大声で、どなりつけた。 ほかの面々も、口をそろえて、 「眼にも見よ。これは、殿下でんか
の御出ぎょしゅつ なるに!」 「不礼であろう」 「御出ぎょしゅつ
にたいして、狼藉ろうぜき な」 「そも、どこの何者ぞや」 と、ののしり浴びせた。 けれど、相手の供人ともびと
たちは、みな、蛙かえる の面つら
に水のような無関心を装よそお
っていた。── あっと基房の前列は、左右へ道を跳び開いた。女車の牛が、大きな車の輪とともに、のそりのそり、眼の前の人間どもを無視して、群れを割り込んで来たからだ。 「停まれっ。やい、停まらぬかっ」 基房の随身は、いきなり女車の牛飼を、撲は
りたおした。そしてその手から、牛の手綱を引ったくって、 「── この、無法者めが」 と、力まかせに、道ばたの方へ、女車を、引っ張り寄せたのである。 「おのれ、主人の車に、手をかけたな」 こう息まいたのは、女車に従つ
いていた、雑色ぞうしき や、童わらべ
たちであった。 後ろにいた者まで、わっと、一せいに前へ出て来た。そして喧嘩腰かんかごし
に、 「よくも、わが主人の車を、辱はずかし
めたな。やい、なんの意趣かよ」 と、吠ほ
え猛たけ った。 |