〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/21 (金) 車 あ ら そ い (一)

ことし嘉応二年の陰暦七月一日は、日蝕にっしょく であった。
ところが。── 右大臣九条兼実の日記 “玉葉ぎょくよう ” の当日を見ると、諸博士の間には、
「必ず、日蝕になる」
という者と、
「イヤ、日蝕にはならぬ」
と、説く者とがあって、げん 不現ふげん 、二派にわかれ、おのおの、自説を固執していたらしい。
おそらく、そう聞いた下官や下部しもべ たちは 「どっちが、適中するか」 と、 け事を見るような興味で、── いや、中にはほんとに賭けたりもして、朝から太陽を仰いでいたことだろうと思われる。
しかし、朝廷や摂家では、いずれになってもいいように、前例に従って、北斗ほくと の七檀を設け、日蝕祭を修する用意だけはしていた。
すると、その日は曇り出して、午後には、雨になってしまったのである。兼実の日記によると ── 現否不決げんぴけっせず で、天は、勝負なしに、両派を引き分けてくれたのだった。
とかく、この夏は、季節も順調でない。天下は旱魃かんばつ に苦しんだ。そこで先月の上旬には、神泉苑しんせんえん孔雀明王経くじゃくみょうおうきょう を修して、雨乞あまご いが行われた。── ところが、大雨が降りつづき、こんどは逆に、十何年ぶりという大洪水だいこうずい である。畿内きない の河川は氾濫はんらん し、洛中は水びたしになってしまった。
(── 仏法の功力くりき はあらたかだが、この洪水には、諸人も弱り果てて、効験の効き過ぎたのを恨むばかりである)
と、兼実は日記のうちに書いている。
以上は、余談に過ぎないが、これらの例を見ても、当時の為政者から一般まで、いかに仏教を考え、そして何事にも、仏力や神だのみに、終始していたかが分かる。
ところで、問題の “車あらそい” が起こった七月三日は、日蝕が不明に終わった翌々日のことで、この日はまた、ひどい暑さであったらしい。
当日。
岡崎の法勝寺で、法華経の八講会はっこうえ が行われた。女院や、親王、摂政、諸大臣以下、たくさんな貴紳の車が、そこへ群れた。
法華八講というのは、法華経八巻を、八人に分けて、八座で読誦どくじゅ する荘厳な法会ほうえ なのである。── 所は、かつて保元の乱の兵火にかかった白河北殿きたどのあと に接した岡崎の里で、その辺りには、尊勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺、最勝寺 などが寄っているので、法勝寺をあわせて、世にこの一地区を、白河六勝寺とよんでいる。
摂政の藤原基房も、その八講会に臨んで、終日ひねもすぎょう と、衣冠の暑さに だって、やっと帰り道についた途中であった。
はやく家に戻って、自分の身になりたかったが、 はまだ高いので、
「参内して、残務を見、夕風を待って、家路へつこう。車を、郁芳門いくほうもん へやれよ」
と、内裏の方へ向かって、大炊おおい 御門みかど の通りを、ゆらゆらと、練って来た。
つよい西陽にしび が、車のれん を通して、中にいる摂政の真白な束帯そくたい 姿を、火中の像みたいに、浮き立たせていた。
摂政といっても、基房は、まだ二十六、七歳でしかない。八講会の法莚ほうえん でも、半日の余を、行儀を守っていたうえに、車の中でも、さすがに摂?せつろく の家の君らしく、すこしも、座容ざよう をくずさず、冠の下から筋をかいて流れる顔の汗にも、おりおり、そっと懐紙を当てるぐらいな身じろぎしか見せなかった。
しかし、今日の暑さと、夕照りの道と、一日中の惰気だき に、まったく だり抜いてしまったのは、彼よりは、供の随身ずいしん舎人とねり たちの方であった。また、はえ を追い、ほこ りを浴びながら、車を っている牛飼と、牛そのものであった。
── もう欲も得もないといいたげな容子ようす が、どに顔つきにも見られた。汗の毛穴は、ほこ りで黒ずみ、爬虫類はちゅうるい のような膚はギラギラと脂を出して、こめかみには、癇癪筋かんしゃくすじ と我慢にふく れている血管とを、二つながらむき出していた。
だが、列の進みかたは、じつにのろ い。
牛のあゆみに、まかせてゆく。
すると。
かなたの猪熊いのくまつじ からも、一列の人と牛車が、同じように、夕陽に かれながら、こっちへ向かって来るのが見えた。
やや近づいてから、それは、大勢の供に守られた一両の女車であることが分かった。
(どこの女房か。息女か?)
と、基房の供人たちは眼をそろえて、真ん中を進んでいた。こちらは、ひと目でも分かる摂政殿下の特徴のある車である。── 当然、行きずりの公卿女房は、車を避けて、路傍に礼を示さなければならない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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