ことし嘉応二年の陰暦七月一日は、日蝕
であった。 ところが。── 右大臣九条兼実の日記 “玉葉ぎょくよう
” の当日を見ると、諸博士の間には、 「必ず、日蝕になる」 という者と、 「イヤ、日蝕にはならぬ」 と、説く者とがあって、現げん
不現ふげん 、二派にわかれ、おのおの、自説を固執していたらしい。 おそらく、そう聞いた下官や下部しもべ
たちは 「どっちが、適中するか」 と、賭か
け事を見るような興味で、── いや、中にはほんとに賭けたりもして、朝から太陽を仰いでいたことだろうと思われる。 しかし、朝廷や摂家では、いずれになってもいいように、前例に従って、北斗ほくと
の七檀を設け、日蝕祭を修する用意だけはしていた。 すると、その日は曇り出して、午後には、雨になってしまったのである。兼実の日記によると ── 現否不決げんぴけっせず
で、天は、勝負なしに、両派を引き分けてくれたのだった。 とかく、この夏は、季節も順調でない。天下は旱魃かんばつ
に苦しんだ。そこで先月の上旬には、神泉苑しんせんえん
で孔雀明王経くじゃくみょうおうきょう
を修して、雨乞あまご いが行われた。──
ところが、大雨が降りつづき、こんどは逆に、十何年ぶりという大洪水だいこうずい
である。畿内きない の河川は氾濫はんらん
し、洛中は水びたしになってしまった。 (── 仏法の功力くりき
はあらたかだが、この洪水には、諸人も弱り果てて、効験の効き過ぎたのを恨むばかりである) と、兼実は日記のうちに書いている。 以上は、余談に過ぎないが、これらの例を見ても、当時の為政者から一般まで、いかに仏教を考え、そして何事にも、仏力や神だのみに、終始していたかが分かる。 ところで、問題の
“車あらそい” が起こった七月三日は、日蝕が不明に終わった翌々日のことで、この日はまた、ひどい暑さであったらしい。 当日。 岡崎の法勝寺で、法華経の八講会はっこうえ
が行われた。女院や、親王、摂政、諸大臣以下、たくさんな貴紳の車が、そこへ群れた。 法華八講というのは、法華経八巻を、八人に分けて、八座で読誦どくじゅ
する荘厳な法会ほうえ なのである。──
所は、かつて保元の乱の兵火にかかった白河北殿きたどの
の址あと に接した岡崎の里で、その辺りには、尊勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺、最勝寺
などが寄っているので、法勝寺をあわせて、世にこの一地区を、白河六勝寺とよんでいる。 摂政の藤原基房も、その八講会に臨んで、終日ひねもす
の行ぎょう と、衣冠の暑さに茹う
だって、やっと帰り道についた途中であった。 はやく家に戻って、自分の身になりたかったが、陽ひ
はまだ高いので、 「参内して、残務を見、夕風を待って、家路へつこう。車を、郁芳門いくほうもん
へやれよ」 と、内裏の方へ向かって、大炊おおい
御門みかど の通りを、ゆらゆらと、練って来た。 つよい西陽にしび
が、車の廉れん を通して、中にいる摂政の真白な束帯そくたい
姿を、火中の像みたいに、浮き立たせていた。 摂政といっても、基房は、まだ二十六、七歳でしかない。八講会の法莚ほうえん
でも、半日の余を、行儀を守っていたうえに、車の中でも、さすがに摂?せつろく
の家の君らしく、すこしも、座容ざよう
をくずさず、冠の下から筋をかいて流れる顔の汗にも、おりおり、そっと懐紙を当てるぐらいな身じろぎしか見せなかった。 しかし、今日の暑さと、夕照りの道と、一日中の惰気だき
に、まったく茹う だり抜いてしまったのは、彼よりは、供の随身ずいしん
や舎人とねり たちの方であった。また、蠅はえ
を追い、埃ほこ りを浴びながら、車を遣や
っている牛飼と、牛そのものであった。 ── もう欲も得もないといいたげな容子ようす
が、どに顔つきにも見られた。汗の毛穴は、埃ほこ
りで黒ずみ、爬虫類はちゅうるい
のような膚はギラギラと脂を出して、こめかみには、癇癪筋かんしゃくすじ
と我慢に膨ふく れている血管とを、二つながらむき出していた。 だが、列の進みかたは、じつに緩のろ
い。 牛のあゆみに、まかせてゆく。 すると。 かなたの猪熊いのくま
の辻つじ からも、一列の人と牛車が、同じように、夕陽に焦や
かれながら、こっちへ向かって来るのが見えた。 やや近づいてから、それは、大勢の供に守られた一両の女車であることが分かった。 (どこの女房か。息女か?) と、基房の供人たちは眼をそろえて、真ん中を進んでいた。こちらは、ひと目でも分かる摂政殿下の特徴のある車である。──
当然、行きずりの公卿女房は、車を避けて、路傍に礼を示さなければならない。 |