原田種直が、筑紫に下ってから間もなく、清盛は、太政大臣を辞職した。 そして、もっぱら福原へ通い、病中、法皇の聴許もあったので、いよいよ国営の業として、大輪田ノ泊
の築堤にかかった。 世にいう “経きょう
ヶ島しま ” の大工事が、本格的に始まったのである。 病中、親しく法皇から彼へ御相談のあった
── 六条の御退位と、高倉天皇の即位も、陽春三月末に、実現された。 ときに、高倉天皇はおん年は、九歳であらせられた。 六条は、上皇となられたわけであるが、おん年はまだ五歳であったので、 「五歳の上皇とは、古来、聞いたこともない」 と、世人は、これもただごとならずとささやき合った。 しかも、今度の即位については、摂政以下の上卿たちも、ただ報をうけただけで、なんの朝議にもあずかっていなかったので、 「いよいよ、清盛の、あらわな野望よ」 「清盛の専横こそ、言語道断なれ。かくも密かに、法皇をたぶらかし奉るとは」 と、彼への非難は、いやが上にも、騒然たるものがあった。 むりはない。摂関家をはじめ、藤原氏の側にとっては、幾世紀の家例をここに破られたのだ。 かつては、殿上へすら昇れなかった地下人ちげびと
の子の清盛が、今や、皇室の準外祖である。しかも、一片の交渉すらなく、彼らが唯一の特権としていた ── 皇室と藤原氏との血縁によるつながりを ── 横あいからの闖入者ちんにゅうしゃ
に、ふみにじられた忿懣ふんまん
は、骨髄にまで、恨みをのんだに違いない。 あまつさえ、凋落ちょうらく
一途いっと をたどる藤氏とうし
の門をよそに、大典の功を名として、平氏の一類、重盛、宗盛、頼盛、教盛など、みな昇官をほしいままにし、いまは皇太后となられた平ノ滋子しげこ
の兄、時子の弟時忠すらも、権中納言の高位に登ったのを見ては ── である。 この時忠が、六波羅に命じて、やらせたことらしいのである。 例の、赤直垂あかひたたれ
の禿童かむろ 三百人を、洛中にちらばして、 「何事にもよれ、平家のことを、蔭で誹そし
る者があったら、すぐ顔を覚えておいて、密告せよ」 と、言い含めたという密偵政治が、ちまたに行われだしたという言い伝えは ── とにかく、町は一種の恐怖症を呈し始めた。ついに、そうした感情の発火といってよいだろう。幾年
── 嘉応二年の夏の七月である。摂政藤原基房の車舎人くるまどねり
と、小松重盛の子資盛すけもり
の車の侍たちとが、途上で大喧嘩おおげんか
を起こしてしまった。── どっちが白だ、いや黒だと、世にいい噪さわ
がれた “車争い” がそれである。 |