〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/20 (木) か む ろ (三)

原田種直が、筑紫に下ってから間もなく、清盛は、太政大臣を辞職した。
そして、もっぱら福原へ通い、病中、法皇の聴許もあったので、いよいよ国営の業として、大輪田ノとまり の築堤にかかった。
世にいう “きょうしま ” の大工事が、本格的に始まったのである。
病中、親しく法皇から彼へ御相談のあった ── 六条の御退位と、高倉天皇の即位も、陽春三月末に、実現された。
ときに、高倉天皇はおん年は、九歳であらせられた。
六条は、上皇となられたわけであるが、おん年はまだ五歳であったので、
「五歳の上皇とは、古来、聞いたこともない」
と、世人は、これもただごとならずとささやき合った。
しかも、今度の即位については、摂政以下の上卿たちも、ただ報をうけただけで、なんの朝議にもあずかっていなかったので、
「いよいよ、清盛の、あらわな野望よ」
「清盛の専横こそ、言語道断なれ。かくも密かに、法皇をたぶらかし奉るとは」
と、彼への非難は、いやが上にも、騒然たるものがあった。
むりはない。摂関家をはじめ、藤原氏の側にとっては、幾世紀の家例をここに破られたのだ。
かつては、殿上へすら昇れなかった地下人ちげびと の子の清盛が、今や、皇室の準外祖である。しかも、一片の交渉すらなく、彼らが唯一の特権としていた ── 皇室と藤原氏との血縁によるつながりを ── 横あいからの闖入者ちんにゅうしゃ に、ふみにじられた忿懣ふんまん は、骨髄にまで、恨みをのんだに違いない。
あまつさえ、凋落ちょうらく 一途いっと をたどる藤氏とうし の門をよそに、大典の功を名として、平氏の一類、重盛、宗盛、頼盛、教盛など、みな昇官をほしいままにし、いまは皇太后となられた平ノ滋子しげこ の兄、時子の弟時忠すらも、権中納言の高位に登ったのを見ては ── である。
この時忠が、六波羅に命じて、やらせたことらしいのである。
例の、赤直垂あかひたたれ禿童かむろ 三百人を、洛中にちらばして、
「何事にもよれ、平家のことを、蔭でそし る者があったら、すぐ顔を覚えておいて、密告せよ」
と、言い含めたという密偵政治が、ちまたに行われだしたという言い伝えは ── とにかく、町は一種の恐怖症を呈し始めた。ついに、そうした感情の発火といってよいだろう。幾年 ── 嘉応二年の夏の七月である。摂政藤原基房の車舎人くるまどねり と、小松重盛の子資盛すけもり の車の侍たちとが、途上で大喧嘩おおげんか を起こしてしまった。── どっちが白だ、いや黒だと、世にいいさわ がれた “車争い” がそれである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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