〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/20 (木) か む ろ (一)

どういう発心か、病後まもなく、清盛は出家した。
法名を、浄海じょうかいとな えた。
浄海。── 出家はしても、なお彼の菩提ぼだい の国は、海にありとしているらしい。
いや、わずらわしい法皇との抗争だの、院の寄生虫や、諸公卿のうるささから脱して、
(わが家は海にあり、わが生涯も海に遊ばん)
という初心から、ひそかに、海への出家をとげたつもりで、名も浄海と、みずから選んだのではあるまいか。
いまや彼には、これ以上、一個の身に、何をと野望する目標もない。小さな官能的な欲望は足りぬいている。思うこととして出来ないことはないのだ。── しかし大きな野望は大いにある。
海のかなたに。
浄海そのものの具現に。
なんとしても、築港は実現したい。
福原を交易市とし、厳島を南海天国の曼陀羅まんだら として建立こんりゅう し、宋の大陸とこの国とを、もっと近いものにしたら、どんな文化のはな がながめられるであろう。それを見て死にたいと思う。
「なあ、種直。── 一個の欲望などというものは、他愛ないものだぞ。腹もふくれ、酔いも足りてしまえば、もうはし にも杯にも手が出なくなるのと同じだ」
病気平癒の饗宴きょうえん が続いて、大勢への客礼にも み、いまは、内輪の小ざかもりを、主従でひそ と楽しみ合っているある夕べ ── 。清盛は、明日は帰国すると暇乞いに出た原田種直をつかまえて、こう述懐していた。
種直は、まだ三十がらみである。九州の豪族の子。代々、大宰府だざいふ の官に奉職しているが、官位はまだ低い。── 清盛が今言ったような言葉は、彼の年齢や、こころざし とは、ひどくかけ離れたものに聞こえた。
その顔つきを見てとって、
「いや、わぬしのことではないぞ。おれのことだ。おれのことを言っているのだ」
と、清盛は、いい足した。
「太政大臣にもなっては、もはやくらい 人臣じんしん を極めたと申してよい。どうするのだ、この上の欲を。── 病中の考えでは、そんな気もするのだったよ。孫、子ども、弟どもにいたるまで、一族有縁うえんやから には、それぞれ、身に過ぎた栄位官職をもたせ、日本半国は、平家の一門が むるところといわれたりしておる。── 事実、これ以上の栄花は、彼らにも毒、清盛にも無用。・・・・何か、他へこころざしてん ぜねばならぬ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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