どういう発心か、病後まもなく、清盛は出家した。 法名を、浄海
と唱とな えた。 浄海。──
出家はしても、なお彼の菩提ぼだい
の国は、海にありとしているらしい。 いや、わずらわしい法皇との抗争だの、院の寄生虫や、諸公卿のうるささから脱して、 (わが家は海にあり、わが生涯も海に遊ばん) という初心から、ひそかに、海への出家をとげたつもりで、名も浄海と、みずから選んだのではあるまいか。 いまや彼には、これ以上、一個の身に、何をと野望する目標もない。小さな官能的な欲望は足りぬいている。思うこととして出来ないことはないのだ。──
しかし大きな野望は大いにある。 海のかなたに。 浄海そのものの具現に。 なんとしても、築港は実現したい。 福原を交易市とし、厳島を南海天国の曼陀羅まんだら
として建立こんりゅう し、宋の大陸とこの国とを、もっと近いものにしたら、どんな文化の華はな
がながめられるであろう。それを見て死にたいと思う。 「なあ、種直。── 一個の欲望などというものは、他愛ないものだぞ。腹もふくれ、酔いも足りてしまえば、もう箸はし
にも杯にも手が出なくなるのと同じだ」 病気平癒の饗宴きょうえん
が続いて、大勢への客礼にも倦う
み、いまは、内輪の小ざかもりを、主従で密ひそ
と楽しみ合っているある夕べ ── 。清盛は、明日は帰国すると暇乞いに出た原田種直をつかまえて、こう述懐していた。 種直は、まだ三十がらみである。九州の豪族の子。代々、大宰府だざいふ
の官に奉職しているが、官位はまだ低い。── 清盛が今言ったような言葉は、彼の年齢や、志こころざし
とは、ひどくかけ離れたものに聞こえた。 その顔つきを見てとって、 「いや、わぬしのことではないぞ。おれのことだ。おれのことを言っているのだ」 と、清盛は、いい足した。 「太政大臣にもなっては、もはや位くらい
人臣じんしん を極めたと申してよい。どうするのだ、この上の欲を。──
病中の考えでは、そんな気もするのだったよ。孫、子ども、弟どもにいたるまで、一族有縁うえん
の輩やから には、それぞれ、身に過ぎた栄位官職をもたせ、日本半国は、平家の一門が占し
むるところといわれたりしておる。── 事実、これ以上の栄花は、彼らにも毒、清盛にも無用。・・・・何か、他へ志こころざし
を転てん ぜねばならぬ」 |