宋医は、つぶさに、清盛の体を診察した。小首をかしげ、ブツブツ何かつぶやいていたが、やがてひとりでうなずいて、あとへ退かった。 「治
るであろうか」 と、清盛は仰向いたまま、顔をこっちへ向けて、宋医にたずねた。 宋医は、笑って、 「たぶん二、三日うちには、すっかり御恢復ごかいふく
になられるでしょう」 と、答えた。 余りに、軽く言って帰って行ったので、なんだか、嘘うそ
のように思われた。けれど、宋医の薬を服の
んでから、翌朝にはもう気分が一変していた。その日も多量な湯薬を飲みつづけた。夜は昏睡こんすい
でないこころよい眠りに落ち、清盛の室からいびきがもれた。 すると次の日、清盛は厠かわや
へはいって、やがて厠から出て来たと思うと、病室までの廊下を、笑いつづけに、ひとりで笑いながら戻って来た。 「相国しょうこく
には、何をそのように、お笑い遊ばすのですか」 宿直とのい
の人びとが怪しんで訊たず ねると、清盛はここ幾日にもない元気な語調で、 「たしかに、おれの病やまい
は癒った。たった今、厠の内で、尻しり
から一斗も虫が出たぞ。中にはこんなに長い紐ひも
のような虫も出たぞ」 と、大真面目に、両方の手を拡げ、その長さを示して言った。 「えっ。虫が?」 と、人びとは亞然あぜん
たる顔をした。 「そうだよ。腹の虫だった」 「お戯たわむ
れを」 「たわけ者。わが身の業病ごうびょう
を、たれが戯ざ れ言ごと
に、弄もてあそ ぶか」 「では、それがお病の因であったのでございましょうか」 「そうだろう。思うに、幼少から虫気の多いおれであった。物心ついては、親に拗す
ねたい虫、食いたい虫、泣きたい虫。長じては、世に逆らいたい虫、負けん気の虫、そして近ごろになっては、腹にすえかねる我慢の虫もたくさんわかせていおった。たとえば院の近習虫なども、呑の
み殺していたつもりだったが、いつか五臓に祟たた
ったのだな。・・・・こりゃときどき、名医にかかって、腹を洗わねばいかん。何しろ、すがすがしたぞ。水飯すいはん
でもさらさら食べたいほど、腹も減って来たわ」 そういって、彼は、人一倍大きな声で哄笑こうしょう
した。 おそらく清盛の病症は、回虫か絛虫さなだむし
だったに違いない。 平安朝医学では、まだ寄生虫病の正体がはっきりつかめていなかった。一括して、腹中に住む?虫あくた
といったり、胃虫、肉虫、赤虫などと分類して、九虫と呼んだり、これも、祟りや物厭ものい
みにむすびつけて、祈祷師が治なお
すものとしたりしていた。 今昔物語には、典薬頭が女の絛虫さなだむし
をとってやる話が出ている。 “初めは寸白といふ虫ならんとて、抜くに従って、綿々めんめん
と長く延び、庁ちやう の柱を七尋ひろ
八尋ひろ ばかりも巻く” ──
と誇張されている。まさか、いくら平安朝時代の回虫や絛虫にも、そんな長いのはいなかったろう。清盛の言った 「虫一斗」 と同じような表現に違いない。 しかし、西八条の家臣たちは、さっそく、下部の者から、厠かわや
の樋洗ひすまし の女
(毎晩、雪隠の下を掃除して歩く肥汲みの女) に、翌朝の物を持ち去ることなかれ ── と停止させておいた。 その朝、一同は顔を寄せて、相国の御糞ごふん
を恐々こわごわ とのぞき合った。そして口々に、 「あなおそろし。・・・・いかさま、これは、虫ばかりよ」 と、舌を巻いてふるえあがった。 相国全快の報は満都に伝わった。──
たれが言い出したか、このときにも、平相国が?龍だりゅう
のような虫を吐き、虫は奇妙な鳴き声を発して、西八条の大廂おおひさし
から雲を呼んで昇天したというような怪異を語る者があった。 けれど、何しても、西八条と六波羅は、夜が明けたような活気を取り戻していた。瑞雲ずいうん
が立つとか、五彩の雲が動くとか言う形容にもふさわしい車駕しゃが
の往来が動き初めた。終日にわたる祝賀や、大殿おおどの
の燈籠やら、管絃かんげん の音色まで、この春も、つつがなく、平家一門の上によみがえって来た。
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