〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/20 (木) むし いつ (五)

ざっと、清盛の考えは、日ごろからそんなものであった。── そのせいか、病夢のうちにも、彼は変な幻覚にとらわれたことはない。高熱でウツラウツラ昏睡こんすい に陥るばあい、たれしも、幻影を描くものだが、清盛は眼がさめると、もう一ぺん幻覚の世界へ返りたいと思うほど、その昏睡が楽しかった。
めると、五体のだるさや、鼓脹こちょう した腹部の苦痛や、得体の知れない吐き気だのに襲われて、思わず呻きたくなったが、熱が高まると、一切の肉体的苦患がかすんでゆき、そして、いつの間にか、魂は、縹渺ひょうびょう たる雲間を、身に羽衣をつけているように、ふわふわと飛ぶが如く翔けめぐる・・・・。
意識ともいえない意識が、
(ははあ、これが、生と死の境というものか。そのどっちでもない空間だな)
と、自分でもたれでもない者が、どこかで、考えていたりする。
すると、天楽てんがく が聞こえ、天女や童子の舞楽が雲を縫い始める。
その中の一童子は、よくよく見ると七歳の頃の自分なのだ。所は祗園ぎおん の舞台らしい。雲と見えたのは桜である。── 母の祗園女御が、花の下で、自分の舞を見て笑っている。父の忠盛もそばにいる。
(母よ、父よ・・・・見ませ。わが舞を)
清盛は舞いぬく、舞い疲れるまで舞っている。
どうしたのか。忽然こつぜん と、父も見えない。母もいない。
破れ笛のように、ピイピイ泣いている子どもらの声がする。じい やの子守歌が哀れを誘う。うまや の馬まで飢えた顔を並べ、青い夕月の下に、今出川の貧乏屋敷が沈んで見えた。
── 清盛は、幼い弟たちの もじげな泣き声に、狂気しそうな焦燥しょうそう をいだいてうろうろし始める。母は、この子や貧乏な家を捨てて出てしまった。父は・・・・と奥をうかがえば、黙然と柱に って、スガ目の面を軒ばへ上げてしわっている。
(わたしはたれの子でもない。あなたこそ、わたしの父だ。白河の御子であるよりは、あなたの子でいたいのです。父と呼ばせてください、父上)
── 父上父上と、清盛は夢うつつに言い続けた。
すると、まくら もとで、
「いかがなさいました父上」 と、重盛が顔をのぞきこんでいた。
宗盛もいる。経盛も横にいる。皆して、揺り起こした様子だった。
「・・・・ああ。何かおれは、おかしなことでも、言っていたのか」
「うなされておいででした」
「夢は楽しいよ。 めると、苦しい」
「ただ今、筑紫表つくしおもて から、太宰少弐だざいのしょうに 、原田種直が、宋医をつれて、のぼ ってまいりました。・・・・すぐお せ遊ばしてはいかがでしょうか」
「宋人の医者か。うウ、診てもらおう」
清盛もその便りは待ちかねていたところらしい。すぐ、種直を招き入れた。
まもなく、種直は控えに戻って、ひとりの宋人を病室へ伴って来た。白鬢はくぜん を垂れ、道服どうふく を着、つる のような仙骨せんこつ の老人だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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