清盛は、病に弱い。 元来、壮健な質なので、日ごろにおいて、病に対する心構えがまるでない。
「おれにも病気はあったのか」 と病気に怯
え、誇大な妄想もうそう を、病気と一しょに持つのである。 (およそ、御病気というと、あなたほど、意気地のないお方はありません) 妻の時子は、よくそれを笑った。 それほど、ちょっとした腹痛や微熱でも、おかしいほど、大げさに騒ぐ彼である。 しかし、今度の場合、まったく容子が違っていた。第一、そう病人が噪さわ
がないし、食物も摂と らなければ、高熱も下がって来ない。 しかもおりおり、病室からは、呻うめ
き声が聞こえ、囈言うわごと めいたことを言う。 主治医たちは眉まゆ
をひそめ出した。池ノ禅尼も時子も重盛も、持仏堂に籠こも
って、加持かじ 祈祷きとう
に、帯紐おびひも を解いたこともない。日々、諸山へ祈祷の使いを立て、一門は深い憂いに沈んでしまった。 当時の通弊つうへい
として、すぐ物の祟りが言い出される。このころ、しきりに陰口が聞こえ出した。 (むかし、安芸守あきのかみ
どののころ、日吉ひえ 山王さんのう
の神輿みこし に矢を射た神罰であろうぞ) (叔父おじ
に当る平ノ忠正どのを、河原で斬った怨霊おんりょう
やも知れぬ) ── いや、義朝の祟たた
りであるの、讃岐さぬき で崩ぜられた崇徳院すとくいん
の御呪おんのろ いもあろうぞなどと、保元、平治を通じて、非業ひごう
の死をとげた人びとの魂魄こんぱく
が、みな西八条の大屋根の上に、雲となって、おおいかぶさっているように言うのである。 これらの陰口が立つ出所には、常に平家にこころよくない一群の公卿がある。その一群の者こそ、何か機会のあるごとに、西八条の大屋根に降りて来る変化へんげ
の物と言ってよい。 しかし清盛は、そういう卑屈で陰性な敵に対し、特に敵意を構えたことはなかった。慢心といえば慢心であったろうが、怖れるほどな存在と思っていないのだ。 なおのこと、死霊だの生霊だのと、よく人の言う
“物の祟たた り” なども、気に病んでみたことさえない。 保元、平治の修羅しゅら
の中は通って来たが、かえりみて、彼は、一切の過去の人間から、祟られるような記憶は残していなかった。たしかに、時運に恵まれた。優勝劣敗の烈しさに克って、勝者たるべく生命を賭と
して相手を討ち亡ほろ ぼして今日には至っている。──
けれど、それは戦いだ。しかも清盛から謀たくら
んだ戦いではない。みな、亡びた者自身が仕掛けて来た合戦ばかりである。そうした亡者もうじゃ
どもから祟られる筋合いはないが、それでも化けて出るものならば滑稽こっけい
な化け物と言うしかありまい。香華こうげ
を供えてやる価値もないものである。 |