清盛としては、輪田の開港や、日宋貿易の誘致などを、もとより一家のこととはしていない。国家百年の計というつもりである。 けれど、院中の諸公卿は
── ことに寵臣 西光のごときは、それをもって、清盛が常備の軍団を置く地とする目的であると誣し
い、 (もし、大輪田が、大船の出入りにも自由な港となれば、清盛の持つ西海地方の勢力は、いつでも、その与党の兵を、都の近くへ上げることが出来、ゆゆしい脅威となりましょう。宋との交易で利益を受けるものは、平家だけです。これ以上、平家が武力に富を加え得たら、どんなことになるかもしれますまい) と、極力その不成功を念じていたほどである。 従って、清盛が希望していた工事の国営化は、なんのかのと、異議がはいって、邪さまた
げられて来た。いかに彼の地位をもってしても、法皇の御同意がなくては、実現されることではない。 ── が、それを今、法皇は、」清盛に確約された。 そればかりでなく、この日、法皇と清盛とのあいだには、もっと重大な御内談もあったことが、後になって分かった。 六条の御退位と、そして、東宮
(高倉) の践祚せんそ
であった。 法皇には、早くから、そのお考えを持たれていたらしい。滋子しげこ
の御腹にできた高倉を即位させて、なお完全に、朝威の上の御位置を確定づけようという御希望なのである。 また、これをもって、清盛を喜ばせ、清盛を駕御がぎょ
してゆこうというお胸もあった。しかし清盛がよく法皇の籠絡ろうらく
するところとなるか、あるいは、法皇がかえって清盛に利用されてしまうであろうかは、たれも予測はつかないし、うかがい知ることもできなかった。ただ両者の肚はらく
と肚とにある大きなかけ引きと見ているほかはない。 還御の後も、法皇は、その日、清盛と黙約されたことを、たれにもおもらしはなかった。 次の日、ふたたび、見舞いとして西八条へおつかわしになった院の医博士、出雲広行が、やがて立ち帰って来ると、近習を遠ざけて、そっとお訊たず
ねになった。 「今日の容体はどうであったの。そちが診み
たところで、清盛は助かるであろうか」 「さあ、どうも、おむずかしいように拝診されました。なんとも、病症の分からない怪病けびょう
で、診断に苦しみまする」 「怪病けびょう
とな、ふうむ」 法皇は、お胸のうちで、何かを思いながら聞いておられるような、うわ眼づかいをしておいでになった。 清盛がここで終わるもよし、また、生きるもよし、変へん
に応じてなすべき方針は、万全であると、ひとり問いひとり答えておいでになるもののようである。 |