〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/19 (水) むし いつ (二)

人心の常である。
「もし、平相国が世を去ったら?」
と、人びとはすぐあとを予想した。
平家全盛とはいえ、まだ固定した勢力とはいい難い。
当然、政権はいよいよ院中心となり、後白河のお考えの如何によっては、武門もどう分裂し出すか分かるまい。平家の独占を許しておかれまいことは明白といえよう。
それかあらぬか、院の御門もにわかに色めいて、上卿や諸公卿の出入りが、朝夕、活発になっていた。
そうした一日あるひ のこと。
法皇には、御車を命じて、
「清盛を見舞わん」
と、ふれ出され、親しく、西八条へ御幸あそばした。
もちろん、あらかじめ、報じてはある。
一門の人びとは、お迎えに立ち並び、病人の清盛は、わけても恐懼きょうく容子ようす だった。
ちり を掃き、香を焚かせ、臨御りんぎょ のお姿へ、ぬかずいた。
「横になっているがよい」
法皇は、清盛の せを、すぐお気づきになって、こういたわ られた。
「いや、耐えられぬほどではありませぬ」
白絹の病衣をかえて、正しく座した彼は、常の清盛よりも、行儀よく見えた。
「お食も余りすすまぬそうだが」
「五体は気懶けだる うて、何の意欲にも欠け、熱のせいか、うつらうつら、幾日も同じ容体をづづけております。とかくして、肉は落ち、心は え、はや定命じょうみょう の近づくやと」
「はははは、御辺らしくもない」 と、法皇はかろく笑い消されて 「── まだ五十一歳、男のさかりでは せられぬか。かつは、朝家の御師範、一門の棟梁とうりょう 。そんな弱気なことでは困る。なおなお、望みも多かろうに」
すると清盛は、正直に、なおこの世に思い残りの多い顔をした。
「仰せのように、まだ死にたくはありません。けれど定命じょうみょう はいかんともなし難しです。それに、寸前をさだめぬ人寿をもちながら、身に過ぎた事業を夢み、それらのことがみな中道に止んでしまうのが残念です」
「何がさように心がかりかの」
「第一に、大輪田ノとまり です。あの海港の築堤を、工事の半ばに めてしまうのは、いかにも口惜しく思います。清盛が亡き後は、あれほどな大工事、とても一家の経営では成すことは出来ますまい。・・・・願わくばこのさい、国費をもって、工を継続されんことを、お願いいたします。清盛が一 のお願いとして、お きいれ給わらば、いくらか心が安まりましょう」
「よろしい。それは今、約しておこう」
「やれ、御聴許を賜わりましたか」
清盛は心からな喜びをあらわした。── この問題は、多年、法皇と彼との間に、一つのわだかまわりとなっていた障壁しょうへき であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next