西八条にも住み、またときには六波羅の旧第
にもいた清盛は、近年、福原の別荘へもたびたび出向いていた。 西国と京の間の旅行者で、福原の変り方に驚かない者はない。以前の漁村や草原は、およそここ五、六年のうちに、雪ノ御所を中心として、一帯の別荘地となり、よい道路も出来、町屋も殖え、わけて海岸は港らしくなっている。 雪ノ御所というのは、清盛の別荘の名であった。宏大こうだい
なその一郭をめぐって、一族の別邸らしく、なお、おちこちに建築中のものも少なくない。 ただ、さしも平氏の富をもってしても、築港だけは、輪田の風浪と、規模の大に、その難工事は、はかばかしくなかった。 石船に石を運ばせ、海底から築き上げるのだから、西南の大風浪に遭うと、一たまりもなく、崩されてしまう。──
やや築堤のかたちになると、夏か秋の台風には、かならず跡形もなく潰つい
えてしまう。 だが、清盛は断念しない。悲観もしない。 「たれか、こういう工事に、すぐれた技能と自信を持っている者はないか。いくらでも重く用いるであろう。われと思う者は名乗って出よ」 と、広く有能の士を求めさせた。 阿波民部あわのみんぶ
成吉なりよし は、それによって選ばれた一人である。彼の下に、飛騨多門、野見隼人、久能大造、橘唐吉などという技師が協力し、また日向太郎通良は、奉行として、日々、数千の人夫や船夫を督とく
して、不屈な努力を続けていた。 すべて清盛一個の私財の経営であった。── で、別荘に来るといつも、彼の場合は人とは違う。そこでの楽しみは、花鳥風月でもないし、老後の計でもない。
「どうしたら泊とまり の難工事を完成できるか
── 」 に、ひたすらであった。都を離れて、ここへ来ている間だけは、頭もからだも、それにかかるきることが出来る。事業は求めた業苦ごうく
であるが、同時に、愉楽であったにも違いない。 ことし仁安三年の春さきも、彼はそんな幾日かを、この地に送っていた。 その福原滞在中から、清盛は風邪心地を訴えていたが、やがて西八条へ帰ると、途中の船や車もからだに障さわ
ったとみえ、その夜から大熱を発して、病床についてしまった。 相国しょうこく
病む。 相国のいたつき重らせ給う。 ── それが西八条の外にもれると、上下は天下の変へん
のように、伝えあった。 一門の子弟は、西八条の夜殿よどの
へ詰めきった。 朝廷からは典薬頭てんやくのかみ
をさし向けて、病を問われ、朝野ちょうや
の人びとは、西八条の車ノ辻に車駕しゃが
を停めて、門を見舞った。朝から夕まで、ひきもきらない見舞い客である。 だが、いかなる貴人も病間には通されなかった。ひそまり返った大殿や細殿で、一族のたれかれや、主治医の口を通して、容体を聞いて戻るだけにすぎない。 沓音くつおと
にも気を使って、憂色をもったまま、西八条を辞してくる公卿たちは、門を出ると、見舞い客同士でささやいた。 「相国には、ここ数日、まったく、お食しょく
も通らぬ御容体とか・・・・。主治医たちも、首をひねっているようですな」 「お熱は下がらぬし、御病名も定かでないとやら」 「何しても、よほど御大患にはちがいない」 一般へは、これがすぐ
「── 重態」 と聞こえ、 「平相国へいしょうこく
の危篤」 という風に大きく伝わった。 もっとも、この急変を聞いて、太宰少弐だざいのしょうに
原田種直は、宋人そうじん の名医を連れて、はるばる出京の途中にあるといううわさがあったり、池ノ禅尼や、嫡男重盛は、自身、あるいは代参をもって、諸山の寺院へ加持かじ
祈祷きとう を願ったり、ここも六波羅も、清盛の病状ひとつに喜憂している有様なので、世人へそう映るのもむりではない。 |