〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/10 (月) ほとけ (三)

元来、良全は好人物なので、朽縄の眼から見れば、どうにでもなる人間に思われた。ニガ手よいうのか、良全はまた、へび に見込まれたかえる のように自分の意志を欠いてしまう。
その朽縄のすすめで、妓王の妹も、妓女ぎじょ と名のって、以前、姉のいた刀自の家から白拍子に出た。お追従も惜しまないが、ひとつ間違うと、厄介な男である。打って変わった悪相をあらわして、 「たれのお蔭で、今日こんな富貴の身になったと思うか」 と、わめき出すのだ。酒でも飲んでいようものなら、輪に輪をかけて、「牛飼町の片隅で、稗粥ひえがゆ もすすれずに、親子して飢え死にするばかりのところを、たれに助けてもらったと思う。しかもまた、おれの手引きで、娘は白拍子になり、玉の輿こし に乗る身になったのに、その恩人をもう忘れやがって」 と、途方もない大声でおど しつける。
良全夫妻が機嫌をとって、やっと大喚おおわめ きが収まると、
「いや、この家とおれとは、今では、切手も切れない親類仲だからな。・・・・。家のためを思うから、憎まれ口もたたいたりするんだよ。なあ良全」
と、親類顔の押売りと変わってくる。
良全はこのごろ、家にもいない日が多くなった。もちろん、朽縄の誘惑だった。旗亭の酒を飲み歩いたり、博奕場ばくちば に日を送ったり、そして家に帰れば、夫婦喧嘩ふうふげんか という家庭に変わって来た。良全が、六条あたりに女を囲い始めたことも、うすうす彼の妻は知っていた。
「自分の働きで、こうなったわけではなし、昔を忘れて、もう親どもが、放埓ほうらつ を始めては、世間のいい笑い草でしょう。いいえ、あの親思いな妓王にだって、すまないではありませんか」
と、彼の妻が、涙まじりに争うような騒ぎも、近ごろでは、雇い人までが、 「それ、また奥で始まったぞ」 と、蔭でクスクス笑っているほどに、いつかこの家の珍しくない日常になっていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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