その後、妓王
のことは隠れもない評判になった。── 招かれもしないのに、われから六波羅の第てい
へ出かけて行き、清盛を手玉にとって、ついに薔薇園しょうびえん
の金殿きんでん に住む身になった
── という風に拡ひろ まって来たのである。白拍子町しらびょうしまち
に聞くだけではない。京雀きょうすずめ
の口に派手派手といい噪さわ がれた。 「どれほどな美妓かは知らぬが、よくも六波羅殿の門へなど、怯ひる
みもなく伺えたものではある」 「当世風の白拍子らしいところよ、とかく臆面おくめん
を知らぬのが、今時の若い女子おなご
だ」 「何せい、えらい幸運をつかんだものさ。どう言われようと、もう清盛卿の側室だからの」 「いずれ、親兄弟の縁類まで、栄花の余恵にあずかった、俄にわ
か分限ぶんげん が、何軒もできることであろう。子を生むなら、女の子にかぎる」 「いや、それも、妓王のような娘でなければ」 言葉はまちまちでも、凡下ぼんげ
心理には、共通しているものがあった。なおのこと、同性の中では、いろいろな取沙汰とりざた
が宣かしま しかった。 京中の白拍子どもは、 (──
あなめでたの妓王ぎおう 御前ごぜ
の幸さいわ いや) と、羨うらや
むもあり猜そね むもあり、羨む者たちは、 (これはきっと、妓という文字名が、縁起えんぎ
の吉よ い字なのかも知れない。同じ遊女あそびめ
となったものなら、自分たちも一度はあんな果報に会いたいものを) と、いいはやして、それからというもの、都の花街には、妓一だの妓福だの、妓徳、妓扇などという名が、やたら流行はや
り出したほどである。 そういう人目をよそに、妓王の親の良全は、前から住んでいた十禅寺町で、宅地を買い拡げ、新しい普請ふしん
を起こしていた。 ── 普請の世話には朱鼻の伴卜が来たこともあり、屋移やうつ
りには、五条の店の者やら、君立ち川の妓亭の者が手伝いに来て、そのあとの酒振る舞いに、鳴物が聞こえ、近所隣へ、餅もち
や肴さかな を配るなど、何しろ稀有けう
なことであった。 その時も、近所合壁がっぺき
、ひと通りでないうわさだったが、やがて一年余りもたってから、この新居へ、妓王が、親の良全夫婦に久しぶりに会いに来た日は、もっと、たいへんな騒ぎであった。 |