〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/07 (金) きみ がわ (一)

なんで呼ばれたのかと、朱鼻はいぶかった。
清盛の前へ座ってだ。
そうお長くはあるまい ── どころの沙汰さた ではない。
じつに、常にもなく、清盛は気が長い。そう急いでもない雑談ばかり語っている。
御用は、と催促するのも、へんである。主たるお人への礼でもない。
そのうちに、
「一酌くもうか」
と、侍者をふりむいて、膳所ぜんどころ へ、酒肴しゅこう のしたくを、命じ出した。
「いや。・・・・どうも、ちと」
朱鼻はついに、隠していたもじもじを、隠しきれなくなって、 「じつは、その・・・・」 と、自分の額をなでまわしてしまった。
「どうした、伴卜。何か、都合が悪いのか」
「御推察のとおりです」
たわけよ。おれに、何を推察せよと言うのか。・・・・なんだ、さしつかえ事とは」
「別儀でもありません。ただ、御曹司のもと に、人を待たせておきましたので」
「人を」
「はい」
「人とは、たれをぞ?」
「じつはその、堀川の白拍子なので」
「白拍子。・・・・ふゥん・・・・」
清盛は、にやと笑った。
しまった。うかつだった。朱鼻はもう一度、自分の額をたたきかえた。 「お召し」 は、これに違いない。こっちが、もじもじしている以上、じつは主君の方が、それだったのだ。 「ばかめ、なぜそれを早く言わないのだ」 と、ふゥん・・・が語っているではないか。読めといわないばかりなお顔ではないか。
「さきほど、廊をお渡りのせつ、あるいは、お目にとまったかと思われますが」
「見たよ」 清盛は、初めて、彼を呼びつけた意志を明かすように ── 「見つけぬ妓であったが、なんという者か」
妓王ぎおう というそうです」
「何しに、妓王とやらを、忠度ただのり の曹司などへ、連れ参ったのか。田舎者いなかもの の忠度が、もう夜遊びなど覚え始めたのか」
「もってのほかな」 と、朱鼻は仰山に打ち消した。
そして、今日、妓王が来たわけを、つぶさに話した。── なお、妓王が、刀自の家の秘蔵むすめであることだの、年もまだ十七なので、他家の宴会えんえ には出ていないことなど、やっと彼らしい調子が出てきたようにしゃべりつづけた。
そこへ高坏たかつき折敷おしき銚子ちょうし など、酒宴のしつら えが、運ばれだした。
「朱鼻」
清盛は、まだ杯も取らないうちに、酒の入っているような呼び方を投げた。
「は、はい」
「ちょうどよい。連れて来い」
「え。妓王を・・・・ですか」
「うん ──」
清盛は、うなずいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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