車が五条大橋を渡って、六波羅の総門に近づいて来ると、妓王は、急に胸がときめき出していた。 彼女は、今日の使いが、うれしくて、途々
も、夢かのような思いだった。 いつかの ── 野寺の門の雨宿りの日を、あれ以来、思い描かずに寝た夜はない。 (やさしいお心の武者。猛く見えて、情もあって
──) と、忠度の姿を忘れかね、その人の声音こわね
や横顔の線までが、いつか心の奥所おくが
に生きて住む者のようになっていた。 だから刀自や朋輩が、その人のうわさをするたびに、妓王は胸の秘めた琴に合わせて、うとりと、人知れぬ恋の奏かな
でを自分だけで聞いていた。 「どして、妓王さんはこのごろ、そんなに、黙だま
り子こ におなりなの」 と、はたの者から怪しまれるほどに
── である。 そこへ、今日の使い。 その人に会える事のうれしさに、二つ返辞で、かしこまって、ここまでつい夢心地に来たのであった。 が、ふと、忠度の前へ出た場合を考え出すと、にわかに、頬ほお
へ血がのぼって来た。 どういおうか、こう答えてなどと、途々、思い綴つづ
っていたことも、乱れてしまい、羞恥に燃える夢うつつのうちに、こう車は、総門を通っていた。 総門内の道をへだてて左右に、まだ幾つもの門が見える。もっと大きい甍いらか
が二階門と呼ぶ正殿せいでん への通路であろうか。 「もし、ものをお尋ねいたしますが」 と、牛車を止めて、小若は、そこらの武者に、訊き
きまわっていた。 「五条の伴卜ばんぼく
様を、この辺でお見かけなさいませんでしょうか。加茂太夫様とも申されるお方ですが」 「あ。・・・・朱鼻あけはな
どのか」 と、武者三、四人が顔見合わせて、 「「朱鼻どのに御用なら、そこの門を通って、右側の車宿くるまやどり
の者に訊いてごらん。今し方、そこらでお姿を見たようだが」 小若は、礼を述べて、一つの門へ、はいりかけた。── するとかなたで、 「ちがう、ちがう。車を、こっちへまわせ」 と、伴卜の姿が、手を振っているのが見えた。 それは女房門の方へ曲がる道筋の一郭
── 曹司門そうしもん の口であった。 朱鼻のあとについて、女車は前栽せんざい
を縫い、車寄せの前に止まった。武者館むしゃやかた
づくりの大玄関の床に、妓王は、降り立って、 「御曹司おんぞうし
の忠度様にお目にかかって、先さい
つころのお礼を申し上げよと、家の刀自とじ
より申しつかって参りました。わたくしは、刀自に家の子、妓王と申す者でございます」 と、番の青侍あおざむらい
たちへ、おそるおそる、取次ぎを乞うた。 式台の人びとは、耳もそたに、彼女の姿に見とれていた。そして急に一人は、奥の曹司へ、この由を、伝えに行くべく立ちかけた。 「あ。待たれよ。お取り次ぎは、すんでおる」
と、伴卜はあわててそれを止め ── 「もう、忠度様へは、わしからお話がしてあるのだ。お取次ぎには及ばぬ。わしが案内してまいる」 と、段を上って、 妓王ぎおう
御前ごぜ 、通られよ」 と、後ろを、さしまねいた。 青侍たちが、眼をそばだて合う前を、妓王の緋ひ
の袴はかま と、水干すいかん
の袖そで が、さやかに鳴って通った。伽羅きゃら
か、蘭麝らんじゃ か、得ならぬ薫りが、いつまでも、あとの青侍たちの鼻に残った。 幾つもの壺つぼ
(内庭) を抱えた幾巡りの廻廊かいろう
を、彼女は、朱鼻の後について行った。そして、庭の遣や
り水みず へ渡された勾欄の橋まで来かかると、廊のかなたから、た、た、た、と早いすり足でこっちへ向かって来た近習きんじゅう
らしい人びとが二、三人、 「お館やかた
が、通られます」 「ちょっと、控えてください」 と、制止の声をかけた。 伴卜は、はっと、すぐ廊の端へ寄った。勾欄の袂の小床へすわった。妓王も、彼に倣なら
って、そこへひかえた。 |