〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/06 (木)   おう (二)

車が五条大橋を渡って、六波羅の総門に近づいて来ると、妓王は、急に胸がときめき出していた。
彼女は、今日の使いが、うれしくて、途々みちみち も、夢かのような思いだった。
いつかの ── 野寺の門の雨宿りの日を、あれ以来、思い描かずに寝た夜はない。
(やさしいお心の武者。猛く見えて、情もあって ──)
と、忠度の姿を忘れかね、その人の声音こわね や横顔の線までが、いつか心の奥所おくが に生きて住む者のようになっていた。
だから刀自や朋輩が、その人のうわさをするたびに、妓王は胸の秘めた琴に合わせて、うとりと、人知れぬ恋のかな でを自分だけで聞いていた。 「どして、妓王さんはこのごろ、そんなに、だま におなりなの」 と、はたの者から怪しまれるほどに ── である。
そこへ、今日の使い。
その人に会える事のうれしさに、二つ返辞で、かしこまって、ここまでつい夢心地に来たのであった。
が、ふと、忠度の前へ出た場合を考え出すと、にわかに、ほお へ血がのぼって来た。
どういおうか、こう答えてなどと、途々、思いつづ っていたことも、乱れてしまい、羞恥に燃える夢うつつのうちに、こう車は、総門を通っていた。
総門内の道をへだてて左右に、まだ幾つもの門が見える。もっと大きいいらか が二階門と呼ぶ正殿せいでん への通路であろうか。
「もし、ものをお尋ねいたしますが」
と、牛車を止めて、小若は、そこらの武者に、 きまわっていた。
「五条の伴卜ばんぼく 様を、この辺でお見かけなさいませんでしょうか。加茂太夫様とも申されるお方ですが」
「あ。・・・・朱鼻あけはな どのか」
と、武者三、四人が顔見合わせて、
「「朱鼻どのに御用なら、そこの門を通って、右側の車宿くるまやどり の者に訊いてごらん。今し方、そこらでお姿を見たようだが」
小若は、礼を述べて、一つの門へ、はいりかけた。── するとかなたで、
「ちがう、ちがう。車を、こっちへまわせ」
と、伴卜の姿が、手を振っているのが見えた。
それは女房門の方へ曲がる道筋の一郭 ── 曹司門そうしもん の口であった。
朱鼻のあとについて、女車は前栽せんざい を縫い、車寄せの前に止まった。武者館むしゃやかた づくりの大玄関の床に、妓王は、降り立って、
御曹司おんぞうし の忠度様にお目にかかって、さい つころのお礼を申し上げよと、家の刀自とじ より申しつかって参りました。わたくしは、刀自に家の子、妓王と申す者でございます」
と、番の青侍あおざむらい たちへ、おそるおそる、取次ぎを乞うた。
式台の人びとは、耳もそたに、彼女の姿に見とれていた。そして急に一人は、奥の曹司へ、この由を、伝えに行くべく立ちかけた。
「あ。待たれよ。お取り次ぎは、すんでおる」 と、伴卜はあわててそれを止め ── 「もう、忠度様へは、わしからお話がしてあるのだ。お取次ぎには及ばぬ。わしが案内してまいる」
と、段を上って、
妓王ぎおう 御前ごぜ 、通られよ」
と、後ろを、さしまねいた。
青侍たちが、眼をそばだて合う前を、妓王のはかま と、水干すいかんそで が、さやかに鳴って通った。伽羅きゃら か、蘭麝らんじゃ か、得ならぬ薫りが、いつまでも、あとの青侍たちの鼻に残った。
幾つものつぼ (内庭) を抱えた幾巡りの廻廊かいろう を、彼女は、朱鼻の後について行った。そして、庭のみず へ渡された勾欄の橋まで来かかると、廊のかなたから、た、た、た、と早いすり足でこっちへ向かって来た近習きんじゅう らしい人びとが二、三人、
「おやかた が、通られます」
「ちょっと、控えてください」
と、制止の声をかけた。
伴卜は、はっと、すぐ廊の端へ寄った。勾欄の袂の小床へすわった。妓王も、彼になら って、そこへひかえた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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