また。──
上皇の女御となった妻の妹にてもそうだ。 上皇からの御心であった。 清盛に結ぶことの必要を、上皇の方から意欲されたのである。滋子は決して、美人ではない。年ばえも、妙齢というには少し過ぎている。──
が、後白河は、寵 をかけられた。そして、玉のような御子が生まれた。その憲仁のりひと
新王は、もうお八ツである。すでに、皇太子の御位にあった。 上皇のお望みは、もう、明らかである。 嫡孫の六条天皇を廃し、御直子の皇太子を、はやく皇位につかせたい御計画であるのはいうまでもない。──新井あらい
白石はくせき の語を借りて言えば
── 上皇が私わたくし を遂げ給うお含みから、自然、清盛にも果報を頒わ
け与えなければならない仕儀になってゆく。これも、清盛が野望して、むさぼり取った果実ではない。 いわば、運である。 楊氏ようし
の女むすめ の貴妃きひ
が、玄宗皇帝げんそうこうてい
に選ばれて、華清宮の芙蓉ふよう
の帳とばり に寵ちょう
せられたそれとは違うが、形において、楊氏の一門とよく似た幸運が、平家一門に、それまでの貴族の門とは軒を変えて、咲いたのだ。── 地下人ちげびと
階級の野性の蕋しべ と、堂上の秘園を出なかった花粉とが、風の吹きまわしで、交配こうはい
をとげたものである。 野性と優良種と。 二つに交配は、自然の性欲と配剤に、理想な結果を生むものらしい。優良のまま褪化たいか
しかけている生物も植物も強靭きょうじん
な野性の生命力と結びつくと、その配合のもとには、すばらしくみずみずしい生命を開花し出すという。 平家一門の人びと、ことに、貴顕と野性との間に生まれた子たち、孫たちが、みなその美しさをもったのは、偶然ではない。 “──
我がガ身ノ栄華ヲ極ムルニミナラズ、一族トモニ繁昌シテ” と、古典が記するところの人びとを見るならば、六波羅、西八条の仁安二年から数年は、平安朝の幾世紀を通じても見られなかった文化の聚楽じゅらく
が匂にお うばかり、咲き競きそ
った。 多少、官職名は、年によって、一つでないが、その人びとの門戸をざっと見てゆくならば ── 嫡子、小松左大将重盛、次男の右衛門督基盛、三男の中納言宗盛、四男の少将知盛。──
また、清盛の弟たちには、経盛、教盛、頼盛、忠度などの、どれもまだ、四十台、三十台のたのもしい者たちが、衛星のように、平相国清盛をめぐっている。 すべて、一門の公卿十六人、殿上人となる者三十余人、諸国に散在する国持ちの家人けにん
から、衛府、諸司など合わせると、六十余名の名だたる一族が、あらゆる部門に、職を統す
べ、駒を立てて、おのおの、家の子郎党を養っていた。 時子の弟、平大納言時忠が、 「── 平家でない者は人に非ず」 と言ったとか、悪評を立てられたのも、この頃のことでもあろうか。真偽は、わからないが、かつての優位を奪われた公卿たちにはいわれがちな陰口である。
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