翌、仁安元年。──
清盛の二女の盛子が嫁いでいた摂政基実は、二十四という若さで病死した。 摂政は、その弟の基房が継いだ。 そして、次の弟の九条実実が、右大臣に更迭し、経宗が左大臣に、そして清盛は内大臣となった。 越えて、仁安の二年二月、武臣として初めての、太政大臣に任ぜられ、随身兵仗
をゆるされた。 太政大臣の重責は、いうまでもない。 天皇の師範、天下の儀表となる者なので、適当の人物がなければ、まま、空官としておくほどなものである。 相国しょうこく
ともいう。 平相国へいしょうこく
清盛は、ちょうど、五十歳の春なのであった。 家居も、その前年、六波羅の旧第から、西八条の新しい館へ、移っていた。 おそらくは、彼の生涯を通じ、この西八条に五十歳を迎えた春ほど、何がな、心のにぎやかな日を持ったことはないであろう。たとえば、人生長途の一峰を踏み登って、なお高い次の峰を望むにも似ていたろうか。 いわゆる平家一門の、花らんまんの訪れも、この年を、春の初めと、見るべきだろう。しかも清盛のこの栄達には、なんの暴力も陰謀も、用いられたわけではない。 しいて、彼が、きょうを慮おもんばか
って、策をなしたものと見ても、二女の盛子を摂関家の基実に嫁がせ、妻の妹を、院の女御にさしあげたという ── それだけの事実しかない。 けれど。 基実の妻に、二女の盛子をやったのも、父の関白忠通が、まだ在世のときで、忠通から
「ぜひに」 と、求められたのである。清盛から押しつけたのではなかった。 その前に、基実には、妻があった。── 平治の乱の張本人、右衛門督うえもんのかみ
信頼のぶより の女むすめ
がそれである。 ために、二条天皇が、清盛の六波羅の館に、あの合戦を、おしのぎ遊ばしている間も、忠通も子の基実も、ついに、御前には姿を見せず、乱が終わってから、罪人つみびと
のように、恟々きょうきょう と、父子、六波羅へ車をつらねて来たのである。 (大逆人のむすめの良人おっと
と舅御しゅうとご 。かつは、重職の身も思わずこの期ご
になっての伺候。君前へ通すべきではなかろう) と、諸卿が口をそろえて、追い返そうとしたときに、ひとり清盛が、 「いや!」 と、衆論を排して、 「忠通、基実どのといえば、摂?せつろく
の重臣、お迎えしても、君前に在りたきお人だ、それが龍駕りゅうが
をお慕いして来たものを、何条、返す法やある。 ── 国家の幸せ、早々、お通し申されよ」 と、大らかな明るさを示して、玉座をめぐる味方のうちへ、彼ら父子をも、迎え入れたのであった。 忠通は、そのときの清盛の寛度と、温かさを、忘れ得なかった。 後に、基実の妻
── 謀反人むほんにん のむすめを離別したさい
── あらてめて、彼から清盛へ、二女の盛子を、我が子の室に乞こ
うたのである。 |