〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/05 (水) はなじゅ らく (五)

翌、仁安元年。── 清盛の二女の盛子が嫁いでいた摂政基実は、二十四という若さで病死した。
摂政は、その弟の基房が継いだ。
そして、次の弟の九条実実が、右大臣に更迭し、経宗が左大臣に、そして清盛は内大臣となった。
越えて、仁安の二年二月、武臣として初めての、太政大臣に任ぜられ、随身兵仗ずいしんへいじょう をゆるされた。
太政大臣の重責は、いうまでもない。
天皇の師範、天下の儀表となる者なので、適当の人物がなければ、まま、空官としておくほどなものである。
相国しょうこく ともいう。
平相国へいしょうこく 清盛は、ちょうど、五十歳の春なのであった。
家居も、その前年、六波羅の旧第から、西八条の新しい館へ、移っていた。
おそらくは、彼の生涯を通じ、この西八条に五十歳を迎えた春ほど、何がな、心のにぎやかな日を持ったことはないであろう。たとえば、人生長途の一峰を踏み登って、なお高い次の峰を望むにも似ていたろうか。
いわゆる平家一門の、花らんまんの訪れも、この年を、春の初めと、見るべきだろう。しかも清盛のこの栄達には、なんの暴力も陰謀も、用いられたわけではない。
しいて、彼が、きょうをおもんばか って、策をなしたものと見ても、二女の盛子を摂関家の基実に嫁がせ、妻の妹を、院の女御にさしあげたという ── それだけの事実しかない。
けれど。
基実の妻に、二女の盛子をやったのも、父の関白忠通が、まだ在世のときで、忠通から 「ぜひに」 と、求められたのである。清盛から押しつけたのではなかった。
その前に、基実には、妻があった。── 平治の乱の張本人、右衛門督うえもんのかみ 信頼のぶよりむすめ がそれである。
ために、二条天皇が、清盛の六波羅の館に、あの合戦を、おしのぎ遊ばしている間も、忠通も子の基実も、ついに、御前には姿を見せず、乱が終わってから、罪人つみびと のように、恟々きょうきょう と、父子、六波羅へ車をつらねて来たのである。
(大逆人のむすめの良人おっと舅御しゅうとご 。かつは、重職の身も思わずこの になっての伺候。君前へ通すべきではなかろう)
と、諸卿が口をそろえて、追い返そうとしたときに、ひとり清盛が、
「いや!」 と、衆論を排して、 「忠通、基実どのといえば、摂?せつろく の重臣、お迎えしても、君前に在りたきお人だ、それが龍駕りゅうが をお慕いして来たものを、何条、返す法やある。 ── 国家の幸せ、早々、お通し申されよ」
と、大らかな明るさを示して、玉座をめぐる味方のうちへ、彼ら父子をも、迎え入れたのであった。
忠通は、そのときの清盛の寛度と、温かさを、忘れ得なかった。
後に、基実の妻 ── 謀反人むほんにん のむすめを離別したさい ── あらてめて、彼から清盛へ、二女の盛子を、我が子の室に うたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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