「なんとか、計らいましょう」 彼のさりげない言い方は、側近たちに、大言に聞こえた。 「叡山たるものが、おめおめ、座主
を引き渡すだろうか」 たれも、危うんでいたが、清盛は、数日のうちに、叡山との談合をつけてしまった。 たちまち、興福寺大衆は、奈良へ引きあげて行くし、洛中の諸民は、台風がそれたように、眉をひらいた。 「どうして、叡山を承服させたろうか」 聞き知る公卿として、いぶからない者はない。しかし事実は、叡山の以後の恭順ぶりで、疑う余地はなかった。 西光法師たちの側近者が、探りぬいて、ようやく、知りえた事は、こうであった。 意外にも、叡山には、清盛の知己がいた。 由来、犬と猿のような仲に見られていた両者の間に、そんな友誼ゆうぎ
を交わされていようとは、到底、想像もされないことであった。 けれど、たしかに、山門でも有数な大法師が、清盛に心を寄せ、ことあるごとに、相互の便を計りあっていたという確証も聞き込んだ。──
その大法師とは、もと横川にいた実相坊、止観院の如空坊、西塔の乗円坊の三名だという。 そう、名まで分かったが、なお、健忘症けんぼうしょう
な世人には、その何者なのかも、そして、どうして清盛と結ばれたのかも、思い出せない。 もっとも、だいぶ年月も経っていた。清盛がまだ三十歳のころである。 それは、久安三年の夏、義弟おとと
の時忠が引き起こした祗園ぎおん
の喧嘩に端を発して、大衆三千が、洛中へ押し寄せて来たときだ。清盛は、彼らの日吉ひえ
山王さんのう の神輿しんよ
に、一矢し をくれて、三千の山法師を驚倒させ、世上からは、狂気したかと、余りな豪胆ごうたん
さを、疑われたことがある。 彼のただ一矢のために、叡山は、醜態をさらして、山へ引き揚げた。 以来、清盛は叡山にとっては、忘れ難い怨敵おんてき
であるはずなのに、かえって、彼を目もく
して、 (どえらい骨太ほねぶと
だ。清盛とは、おもしろいやつよ、珍重すべき男ではある) と、年を経てから、誼よしみ
を通じて来た者が、その時の乱闘相手、実相坊、如空坊、乗円坊の三人だった。 ── それから、いつか、十八年は過ぎている。 清盛にとっても、あの年ごろのことごとは、かえりみて、感慨にたえないであろう。 「おれも、乱暴だった」
と思い、もう今では、日吉山王の神輿に矢を射るような向こう見ずは、やれといわれても、二度とは、やれない自己を見出しているにちがいない。 |