〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻
2013/06/05 (水) はなじゅ らく (二)

── それも、以前ならばである。
何にしても、今、平家とは、気まずいものがある。
さきに、変なうわさが飛んだとき、上皇の御英断から、御自身、六波羅へ御幸あって、清盛の疑惑を解かれたようなものの、なお、清盛が、どう思っているか。あれで、釈然と、旧情にかえっているか、大いに、疑わしい。
ここの側近たちが、今も、そう気に病むのは、気に病む理由があるからであろう。彼ら自身に、覚えがあるに違いなかった。
だから、興福寺大衆が、大挙、出動してきた場合、武門を向けて、鎮圧するには、どうどても、清盛を除外しては、案が立たない。── つづまるところ、清盛をどうあやつ るかが、まだ、上皇の深い御思案のうちにあるものと察しられる。
「西光・・・・」 と、こんどは、西光法師へ、お顔を向けられて 「ちまたの間では、なんと申しておるの。先ごろのことを」
と、お きになった。
ちょっと、のみ込みかねた顔つきで、西光は、拝伏しただけで、伺い直した。
「仰せの儀は、なんの、おたずねでございましょうか」
「わからぬか」
と、このとき、上皇には、満座へあらたまって公言を遊ばすように、特に、はっきりしたお声で言われた。
「──清水寺炎上の夜、だれが言い出せしか、朕が、叡山に平家討伐の密命をくだ したなどという取沙汰とりざた が、ちまたに かれたというではないか」
「はい」
「さようなこと、つゆほども思い寄らぬものをよ。・・・・西光、あのふしぎは、どう思うぞ」
人びとは、はっと、口のうちをかわ かせた。
これは上皇のお言葉とも思えない。いつもの仰せとは、まるで違っている。君子くんし豹変ひょうへん するという。その御態度か。それとも、何かわれを、お試しになるのではあるまいか。
西光が、それにどうお答えするであろうかも、人びとは、かたずを飲む思いで、見まもった。西光のくち もとへ、眸をそそぎあっていた。
西光法師は、すこしも、たじろぐことなく、こう申し上げた。
「されば、天に口なし、人をもって言わしむ、とか。ちまたの眼にも、近ごろ、平家の驕慢きょうまん や、清盛のなすことが、もってのほか、僭上せんじょう なりと、見かねて来たものではありますまいか。つゆ、御心には思し召しよらぬまでも、天が人をして言わせたものでございましょう」
すると。上皇は、あきらかに、 「うむ」 とおうなずきあったから、急に御手を振って、大きくお笑いになった。── 横をお向きになったまま、
「そのこと、よしなし、としなし」
と、うち消された。
側近たちも、一時に、ざわ めき笑いながら、催馬楽さいばら歌拍子うたびょうし に似せて、いい消した。
「壁に耳あり。おそろし、おそろし。・・・・よしなき れ歌かな、よしなし草にさお さす川の刈藻舟かるもぶね は」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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