〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/06/04 (火) いち がく しょう (三)

焼け跡の男女は、何かに、 かれたように、学僧へ、肉迫して来た。
それこそ、物に飢えた魂の顔つき見るようであった。
「ああ、離してください」
と、学僧は手の笠を振って、 びるように、大勢の輪から逃げ退 いた。
「── 言い過ぎました。わたくしにも、今は分かりません。けれど、かならず、そいうお人が、どこかにいるはずにはちがいないのです。今のきっと、現れましょう。もう皆の前に、そういう功力くりき のある仏弟子のたれかが今日現れないならば、仏教もうそ です。宇宙の約束も嘘です。人間の本性と言われて来たものも ── 釈尊の言葉すべてが、嘘っぱちです。そのときこそ、絶望したらいいでしょう。まだ、叡山にも、他の山々にも、まったく、のり が消え絶えたわけではありません。生き抜いてください。世をうたご うたり、絶望しないで・・・・」
学僧は、こう叫び叫び、身をひるがえすと、それこそ、世間のはじ を身一つに浴びている人のように、笠を眉深まぶか にして、立ち去ってしまった。
なお、呼びかけてゆく者やら、冷笑して、散らばる影やら、灰埃はいぼこ りが、ひろがってゆく。政治から生活のすべてまで、仏陀ぶつだ への信仰が、社会の紐帯ちゅうたい であり中軸であった世の庶民たちなので、こういう路傍の小事件にも狂じやすく、異様な情熱を持つのであった。
「はてな? ・・・・。今のは、どこかで見たような学僧と思うが」
後白河の側臣、藤ノ西光法師は、検非違使けびいし康頼やすより を案内に、焼け跡のあちこちを見て来た足をたたずませて ──
「康頼。和殿わどの は、知らぬか」
と、うしろをふり返った。
康頼は、職掌がら、すぐ答えた。
仁和寺にんなじ の岡ノ法橋ほつきようもと でお会いになったのではありませんか。昨年ごろ、しげしげと、慶雅けいが 法橋ほつきよう を訪うて、華厳けごん を学んでいた叡山の学生がくしょう がありましたが」
「おお、それだな、ならび ヶ岡の大納言ノ法橋のおん許で見かけたのだろう。── 天台に学徒や碩学せきがく も少なくないが、彼の右に出る者はあるまいなどと仰せられていた・・・・」
「法橋が、そんなに、おほめでしたか」
「それで、覚えていたとみえる。叡山の黒谷に遁世とんせい しておるたれとやら申されておったよ」
法然房ほうねんぼう 源空げんくう でございましょう」
「そうだ、法然房・・・・。今のはその法然房に違いなかった。叡山でも、黒谷に閉じこも って、一切、人交わりをせぬとかいう男が、なんでこんな焼け跡などを、徘徊はいかい していたものだろう」
「いや、べつに不審はございますまい。何せい、炎上沙汰ざた の大きなところへ、また立札がうわさになって、子の通りな人出ですから、ただ物珍ものめずら に、見物に来ただけでしょう」
「むむ。そんなものかも知れんな」
西光は、微行しのび 姿すがた であった。たれも院の近習とは、知るよしもない。
なお、くま なく視察して、やがてふもとに待たせてある従者とこま を手招きした。そして、康頼とはそこで別れ、仙洞せんとう 御所ごしょ へ帰って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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