この夏中に、西八条の一部は、すでに工事の落成を見、時子や幼い者や女房たちのあらましは、もう新居のほうへ移っていた。 けれど、清盛はなお、六波羅の旧邸に起臥
していた。 だが、彼は大喪使の一員でもあったので、その六波羅へも、ここ十日以上は、帰っていない。 ようやく、船岡山の御葬儀をおえて、さすがに、体も綿のように疲れ果てた日も、やはり内裏へ引き揚げていた。宮中の祭殿に霊代みたましろ
を奉安するとか、諒闇りょうあん
の布告とか、廃朝はいちょう のさだめを申し合わせるとか、大赦の前例をただすとか、限りもない忙しさである。 何しろ、天皇六条は、まだ乳人まのと
にふところに抱かれているお二つの君である。廃朝といっても、形式だけさし、朝議といっても、諸臣の間で、決めてゆくほかはない。 清盛は、身の疲れも、家へ帰ることも、忘れていた。 主体があって主体の御方がないにひとしい朝廷にあって、万機に紊みだ
れを生じないように、しかと、皇居の尊厳を守っているには、どうしても、自分が必要であると考えているからだった。 いい相談相手だったし、らいらくな気風なども、清盛と気心が合っていた太政大臣伊通これみち
は、二条帝に先だって、ぽっこり、老衰で亡な
くなってしまったし、そのほか、頼みがいある顔も少ない。 さしあたって、新内閣の主なる顔ぶれには。 さきの藤原ふじわら
忠通ただみち の子、関白基実もとざね
が、摂政に。 その弟、基房が、左大臣へ。 また三番目の弟で、年もまだ十六でしかない九条兼実が、初めて、内大臣を拝している。 そして、右大臣には、例の夕顔ノ三位
── 近ごろ大炊おおい 河原に住んでいるところから、大炊御門経宗と呼ばれている彼が、いつのまにか、重職についていた。 こう見てくると、依然として、宮中における藤原氏
── 特に藤原ふじわら 北家ほっけ
の位置は、むかしと、いささかも変っていない。 いや、摂政関白から、左府、内府の二大臣までを、五摂家の内の兄弟で占めているなど、いかに、ここで頽勢たいせい
を食いとめようとしているか、旧勢力のあがきが分かる。 「ああ、人はいない。帝は、お乳もはなれぬ、みどり児。皇太子は、六歳。内大臣は十六歳。・・・・めずらしい朝廷といわねばならぬ。しかも大人おとな
らしい輔弼ほひつ すら、たれ一人、いるでもない」 清盛は、憮然ぶぜん
として、おりには、そういう意識のもとに、宮中を見まわした。そして、 (これが、上皇の望ませ給う朝廷か) と考えると、何か、割り切れないものが、心に残る。 |