〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/05/28 (火) いち がさ (三)

彼は近年、師の百川ももかわ から習んだ医術のほかに、自分で “貌診ぼうしん ” というものを工夫していた。
あらゆる内患は、人間の皮膚、面貌めんぼう の色相になって、正直にあらわれる、という基礎に立った一種の診断法、相病学なのである。
やがて脈を取り、全肢ぜんし て、すぐ手当てにかかった。
手早く、体の数ヶ所に、はり も打った。
「かたく、歯を閉じていますから、どなたか、この薬を、 みつぶして、くち うつしに、含ませておやりなさい」
麻鳥は、幾粒かの丸薬を、自分のてのひら へのせて出した。まわり人びとを見て告げた。
下僕は、白拍子たちをうながし、白拍子たちもまた、その役をゆずり合って、お互いにもじもじしていた。
すると、年上の白拍子が、中でも年下の一人を、うしとから前へ押し出して、
妓王ぎおう さま、あなたがよい。あなたは、刀自とじ養女むすめ ぶんですし、日ごろ、いちばん可愛がられていますもの」
と、名指しで、いいつけた。
「・・・・わたくしでよいかしら」
と、妓王はわるびれる風もない。
市女笠のひも を解いた。そして麻鳥と病人の前に、かしこまった。
手を見てさえ、まだ十六、七の処女おとめ とすぐ知れるような白い掌を開いて、麻鳥の方へ出した。
彼女の のうらへ、麻鳥はそっと片方の掌を添えた。そして、自分の掌の上から女の掌へ、真珠色のいとも小さい粒を、幾粒もころがした。
「・・・・あっ。あなたは」
「おっ。明日香あすか ちゃんか」
薬は、露の白玉みたいに、指の間から、消えてしまった。どっちの掌が、こぼしたのか分からない。
驚きも一緒、薬がこぼれ散ったのも一緒だった。
「や、いけない、いけない」
麻鳥はあわてて、薬嚢やくのう から同じ薬を取り出した。あらてめて、妓王の掌へそれを移し直し、そして、まわ りの人の怪しみを、ともかく、さり気なくまぎ らせた。
「さ、早く御病人へお上げなさい。・・・・そして、お口を割って、のど へ水を落として上げるとよい」
ちょうど、その時、さっきの部下の者が、牛車を引いて帰って来た。
若い武者は、ほかに心も忙しいらしく、馬上に返って、あとのことを、部下に託し、ひと足先に駆け去った。
「さ。早く車へ乗れ。少し窮屈でも、下僕のほかは、みな乗るがよい。どうだ。病人の容子ようす は」
「おかげで、あのように、おらく になったようなお顔色です。ありがとうございました」
白拍子たちは、そろって、車副くるまぞい の者へ、礼を述べてから ──
「お優しい大将にお会いして、刀自とじ もわたくしたちも、倖せでした。今、あちらへ行かれた公達は、一体、どなた様でございましたか」
「今のお方は、まだ、熊野から都へ来て間もないが、清盛様とはお腹違いの御舎弟、検非違使尉けびいしのじょう忠度ただのり 様というお方だ」
「まあ、それでは、大納言様 (清盛) の弟君だったのですか」
白拍子たちは、もう見えないこま の行方を、もう一度、見送っていた。
けれど、妓王だけは、牛車くるま の内へ入るまで、べつな人へ、後ろ髪を引かれていた。
ひとこと 、何か語りたいと思っても、麻鳥はもうその近くにいなかった。蓬子の眼が、後ろにある。彼もまた、心にもなく、牛車のそばを離れていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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