〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/05/28 (火) いち がさ (二)

「・・・・や、病人か」
馬を降りて来た公達武者は、手の早い部下を制して、やさしくたず ねた。下僕しもべ のひとりが、おろおろして答えた。
「はい、暑さあたりでもなされましたか、おあるじ が、にわかに、道でたおれましたので、皆して、御介抱しているところでございまする。すぐ、背に負うて、ほかへ移りまするゆえ、しばらく、お見逃しを」
「待て待て。・・・・老女は苦しそうな。・・・・立ち退 かいでもよいわ、すこし落ち着くまで、そうしておいてやれ」
「え。よろしゅうございますか」
「よいとも、病人を、雨にでも打たせたら、なお悪かろう。・・・・なんぞよい薬でもなおものか。たれか持たぬか」
武者は、たくましい姿にも似ず、やさしい心の持ち主らしい。
しきりに、鎧のそで を探っていたが、今日に限って、薬嚢やくのう を持ち合わせていなかったのを、悔やむようなまゆ でさえあった。
「そちたちは、いったい、どこの女房たちか」
「堀川の白拍子町に住居する者でございます」
「ほ。白拍子とな」
若い武者は、市女笠いちめがさ の女たちを、見直して、
「── こんな遠い野路のじ まで、御葬儀をお見送りに来たのか」
と、言った。
「はい・・・・」 と、年上らしい白拍子の一人が答える。── 「おあるじ刀自とじ が、どうしても、船岡山を間近う拝みたいと仰っしゃるので、ここまで参りましたが、その刀自がこんなことになって、どうしてよいやら、途方に暮れていました」
牛車くるま を貸してつかわそう。病人を乗せて帰るがいい」
彼のいいつけに、部下の一人は、どこかえ走って行った。その間も、病人は痙攣けいれん を起こして、しきりに、苦しみ訴えぬく。
麻鳥は、遠くの木蔭で、見ていたが、病人騒ぎらしいと思うと、素知らぬ顔をしているのが、何か良心の苦痛になった。── で、そっと、山門の横へのぞきに行って、またすぐ、蓬子のそばへ帰って来た。
「ねえ、よもぎ」
「なんですか」
なお してやりたいなあ、あの病人を」
「およしなさいませ、六波羅の侍衆がおりますよ」
「いてもいいじゃないか。人助けだもの」
「あなたは、あの白拍子たちの右側に立っている若い男を、たれだと思っているんですか」
「あれは、あの白拍子のあるじ について来た下僕しもべ だろう」
「それは分かっていますけど、うじ や素性を、知っていますか」
「そんなこと、わしが知るはずは、ないじゃないか」
「だからお めしているのです。・・・・わたくしも、びっくりして、人違いかしらと、眼を疑ってしまいましたの。── 向うも、わたくしの顔を見れば、ハッとするでしょうから、わざと、こうして木の幹に、身を隠すようにしているんです」
「へえ。あの下僕は、見たままな下僕ではないのかい」
「むかし源義朝さまの侍童じどう をしていた金王丸こんのうまる というお人です」
「えっ、金王丸?・・・・あれが」
「あなただって、御存知でしょう。平治のいくさ の後で、悪源太どのと一緒に、六波羅で追捕ついぶ の令のきびしかった人ですもの」
「何か、人違いであとう、それは」
「いいえ、わたくしが、見違えるはずはありません。ひところ、常盤さまのお命をうかごうて、壬生みぶ のお住居へ忍び入ったりしたことがあるんですもの」
「不気味だなあ。どういう訳で、白拍子町で、下僕奉公などしているのだろう」
「そのはら だって分かりませんし、そばにいる六波羅衆だって、夢にも知らずにいるんでしょう。・・・・けれど、後で分かってごらんなさい。どんな巻き添えをくうか」
「ははは。そんな取りこし苦労なのか。わしはもともと、源氏でもなし平家でもなし、おまけに、今は内裏だいり伶人れいじん でもないから、そういう心配なら、何が起ころうと、平気だよ。・・・・かりにも、医道にたずさわる者が、病人を見て、横を向いているのは、心の呵責かしゃく だ。うしろめたい」
「どうしても て上げたいんですか」
「癒らぬ病気ではなし、急に、今日の暑さにたおれたぐらいなら、すぐ苦痛は ってやれる。先もこっちも、わしだけなら顔は知らないのだから、さしつかえあるまい。おまえは、ここで待っておいで」
麻鳥は、言い残して、山門の袖壁そでかべ へ、近づいて行った。
その跫音あしおと に、ふと、病人を囲む人びとの眼も、彼の方へいぶかしげに、振り向いて、彼の姿にそそがれた。
かれの親切と、そして医生であることが、やっと先にも通じたとみえる。六波羅の若い武者も、女たちも、よろこんで、病人のそばに、彼を迎えた。
「・・・・・」
麻鳥は、脈を取ることもせず、黙って、病人の顔を、冷酷なほど、凝視していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next