こういう四囲の推移と、微妙な接触のうちに、清盛のここ三年半は、とまれ、忙しく健康に過ぎていた。 その間に、皮肉にも、彼は、権大納言兵部卿に昇進している。 もっとも、それだけの功はあった。 上皇の御命を受けて、蓮華王院
の造立に力を尽くし、観世音像一千体を安置して、その落慶式らっけいしき
の奉行までを、勤め果おわ したことである。 いや、もうひとつ、公おおやけ
のものではないが、彼のなしつつある仕事があった。 それは、自身の女むすめ
たちや一族の姫の中から、絵をよくする者、装?そうこう
(表具) の技に巧みな者を選び、また妻の時子には、染紙の製作など手伝わせて、平家の氏神、厳島に納める経巻の発願ほつがん
に、手を著つ けはじめていたことであった。 そして、その第一の法師功徳品ほっしくどくほん
と阿弥陀あみだ 経きょう
は、すでに写経も成り、題簽だいせん
、見返しの絵画、軸、露紐などまで、芸術的な良心を尽くして、もう清盛の奥書までできていた。 近く、彼はこれを携えて、厳島に自分のちかいを秘め納めるため、ふたたび、あの潮路うしおじ
の旅を心がけている・・・・。 ところが。 永万元年の夏六月。 かねて御不予ごふよ
であった天皇二条は、その月二十五日、にわかに、御危篤に瀕ひん
せられた。 上下の憂色と、内裏だいり
の混雑は、ひと通りでない。 御簾ぎょれん
の内の玉の緒お は、今し、御危篤と聞こえる中に、即夜、あわただしい立太子の御儀は定められ、つづいて譲位の由も、聞こえわたった。 践祚せんそ
あそばした次代の六条天皇は、おん年、二歳でおわした。 これは大蔵大輔おおくらのたいふ
兼盛の女を母とし、中宮育子を養母として、藤壺ふじつぼ
のうちで乳人めのと の乳を参らせていた二条天皇の一ノ宮であった。あわただしくも、この二歳の宮へ、御位を譲らせられた二条のお心には
── いや側近たちの心は、いったい何をおもんばかり、何をそう恐れていたのであろうか。史上に、文字はなくとも、読み取れないことはない。 しかし、その直後。 後白河は、女御にょご
滋子しげこ の御腹の憲仁のりひと
(後の高倉天皇) をたてて、六条の東宮 (皇太子) となされてしまった。 天皇は、二歳。 そして、皇太子は、時に、六歳。 ──
天下、何トナウ、慌テタル様ナリケリ。 ── 先例ナシ。物騒ガシトモ、愚オロカ
ナリ。 時人の気持は、この短い古典の中の一句にも、眼に見るようにわかる。 ただ、ここに、あわれとも、数奇というも、いいたりないごど、ふしぎな悲運に会われたのは、美貌びぼう
の皇后多子であった。 玉の簾、錦の帳内も、みな、涙の汚染しみ
に、褪あ せて行かないものはない。 彼女は、二十八。 崩御された先帝二条は二十三のおん短さであった。 大葬は八月炎熱の七日夜。香隆寺の北、船岡山ふなおかやま
で執と り行われたが、はしなくも、この御葬送の夜、叡山の大衆と、南都興福寺とのあいだに、狼藉ろうぜき
な事件が起こった。 世にいう南北大衆の “額打論がくうちろん
” とは、その時の大喧嘩おおげんか
のことである。 |