〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/05/27 (月) 鯨 (五)

こういう四囲の推移と、微妙な接触のうちに、清盛のここ三年半は、とまれ、忙しく健康に過ぎていた。
その間に、皮肉にも、彼は、権大納言兵部卿に昇進している。
もっとも、それだけの功はあった。
上皇の御命を受けて、蓮華王院れんげおういん の造立に力を尽くし、観世音像一千体を安置して、その落慶式らっけいしき の奉行までを、勤めおわ したことである。
いや、もうひとつ、おおやけ のものではないが、彼のなしつつある仕事があった。
それは、自身のむすめ たちや一族の姫の中から、絵をよくする者、装?そうこう (表具) の技に巧みな者を選び、また妻の時子には、染紙の製作など手伝わせて、平家の氏神、厳島に納める経巻の発願ほつがん に、手を けはじめていたことであった。
そして、その第一の法師功徳品ほっしくどくほん阿弥陀あみだ きょう は、すでに写経も成り、題簽だいせん 、見返しの絵画、軸、露紐などまで、芸術的な良心を尽くして、もう清盛の奥書までできていた。
近く、彼はこれを携えて、厳島に自分のちかいを秘め納めるため、ふたたび、あの潮路うしおじ の旅を心がけている・・・・。
ところが。
永万元年の夏六月。
かねて御不予ごふよ であった天皇二条は、その月二十五日、にわかに、御危篤にひん せられた。
上下の憂色と、内裏だいり の混雑は、ひと通りでない。
御簾ぎょれん の内の玉の は、今し、御危篤と聞こえる中に、即夜、あわただしい立太子の御儀は定められ、つづいて譲位の由も、聞こえわたった。
践祚せんそ あそばした次代の六条天皇は、おん年、二歳でおわした。
これは大蔵大輔おおくらのたいふ 兼盛の女を母とし、中宮育子を養母として、藤壺ふじつぼ のうちで乳人めのと の乳を参らせていた二条天皇の一ノ宮であった。あわただしくも、この二歳の宮へ、御位を譲らせられた二条のお心には ── いや側近たちの心は、いったい何をおもんばかり、何をそう恐れていたのであろうか。史上に、文字はなくとも、読み取れないことはない。
しかし、その直後。
後白河は、女御にょご 滋子しげこ の御腹の憲仁のりひと (後の高倉天皇) をたてて、六条の東宮 (皇太子) となされてしまった。
天皇は、二歳。
そして、皇太子は、時に、六歳。
   ── 天下、何トナウ、慌テタル様ナリケリ。
   ── 先例ナシ。物騒ガシトモ、オロカ ナリ。
時人の気持は、この短い古典の中の一句にも、眼に見るようにわかる。
ただ、ここに、あわれとも、数奇というも、いいたりないごど、ふしぎな悲運に会われたのは、美貌びぼう の皇后多子であった。
玉の簾、錦の帳内も、みな、涙の汚染しみ に、 せて行かないものはない。
彼女は、二十八。
崩御された先帝二条は二十三のおん短さであった。
大葬は八月炎熱の七日夜。香隆寺の北、船岡山ふなおかやま り行われたが、はしなくも、この御葬送の夜、叡山の大衆と、南都興福寺とのあいだに、狼藉ろうぜき な事件が起こった。
世にいう南北大衆の “額打論がくうちろん ” とは、その時の大喧嘩おおげんか のことである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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