〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/05/27 (月) 鯨 (三)

あくる日は、如意輪の滝を仰ぎ、深山の遅桜に足をとめ、清盛は都の空も忘れて歩いた。
忠度は、姿に似気なく、幾首かの和歌を んで、兄に示した。そして、かつて熊野に来た西行さいぎょう という歌法師が、宮井の屋敷に泊ったとき、一夜、都の話を聞いたことがありました ── などと、何も知らずに、清盛へ話したりした。
「西行か。あの男も、ふしぎな人間ではある。遠藤盛遠もりとう の文覚といい、佐藤義清の西行といい、一ころの勧学院かんがくいん北面ほくめん の同僚には、どうも変わり者ばかりが多かったようだ。・・・・さて、これからの若木わかぎ は、どう咲くだろうか」
清盛は、忠度のすぐれた身丈みたけ を後ろからながめながら、しきりに、次の世代を、考えていた。
「や、兄君、ごらんなさい」
突然忠度が指さした。
この山路から一眸いちぼう にはいる熊野浦の水と空ばかりな紺碧こんぺき に向かってである。
「なんだ、何が見えるのか」
くじら です」
「鯨? ・・・・あ、鯨か、あの影は」
清盛は大きな眼をいっぱいに、海原の一点へ、こらすと、たちまち自己を忘失し去ったような顔をしてしまった。この浦辺うらべ では珍しくもないが、彼にとっては、はからずも、自然界の一奇観に出会ったような驚異を持ったものとみえる。
鯨の父、鯨の母、鯨の子の群れ。巨大な背が、暗礁あんしょうはだ か、黒い船体みたいに、浦近く遊弋ゆうよく している。浦々の漁夫が貝を吹いていた。
一頭の親鯨の背から、しお を噴いた。平和を自負して誇ってゆく、平和の民族の旗のようだ。
清盛は飽くなく見恍みほ れていた。彼自身の体が、潮を噴き出しそうであった。
ひとみ からにじ が立っている。
「おいっ、忠度」
「はい」
「やがて、これから帰る都は、えらく狭いぞ。熊野灘くまのなだ を見ては、まるで釣殿の池みたいなものでしかない。しかも、ややもすれば、腐水すえみず となりやすい古池だ」
「そうでしょうか」
「そうなのだ。都を知らぬおこと は、どう、夢見ているか知らぬが、まあそんなところだ。そこに、おれは生まれ、平家のやから を率いている。── ところが、池はおれの性に合わぬ、おれはどうも、の親鯨らしい」
「すると、わたくしは、子鯨ですね」
「── と思えよ、弟。とかく都の水に れると、ふな や目高になりやすい。熊野浦の潮風を忘れるな」
忠度はうなずいた。
忠度には、この兄が、何やらすこし奇矯ききょう なお人に見えもしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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