〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/05/27 (月) 鯨 (二)

「都へ行くか。おれと一緒に」
「もとより、多年の宿望でした。それを、いつの日ぞと、夢にまで見て、待ちこがれておりました。
「連れて戻ろう。外記どのへ、多年の御養育を、ようく、お礼申してゆけ」
外記は、小酌をそなえて、別れを惜しんだ。
「生みの母御は」
と、清盛がたず ねると、忠度は、また泣いた。何かにつけ、すぐ涙ぐむ弟だった。清盛は、自分の二十歳ごろが、思い出された。
「母は、幼いうちに、 くなりました。・・・・して、都には」
「池殿という、ほかの兄弟の母がおる。・・・・いや、母の話しはようそう。時に、那智は遠いか」
「お出で遊ばしますか」
「めったには、また来られまい」
「お供いたしましょうず。忠度は、道もよう心得ておりますゆえ」
「その夜は、また一人の弟を得たよろこびを、清盛は、こうした旅で、心に刻んでおきたいと思っている。
日を経て、那智へ着いた。
滝御堂がある。
滝守たきもり禰宜ねぎ が、六波羅殿とは知らずに、話しかけた。
「もう十日ほど早くお越しなされますと、滝つぼに、希代きたい な行者が、今年も二十一日のぎょう に就いておりましたのに、惜しいことをなされました」
「希代な行者とは。・・・・あ、うわさのたかいお、文覚もんがく か」
「さようでございます。ここへ荒行にお見えになってから、もう二十年、春か秋かのべつはございますが、まだ一年も、お欠かしになったことはありませぬ」
「なるほど、希代なばかだな。次に文覚が見えたら、そういって去った者があると申しておけ」
「えっ・・・・たわけよと、仰せられますか。して、あなたは、どなたですか」
「伊勢ノ平太といえば分かる」
「伊勢の・・・・?」
「うむ、もうひと言、こうも伝えてくれい。なぜ、六波羅へ参らぬかと。むかしのよし み、一寺は寄進申そうにと、待っておるのに、いっかな、やって来ぬ。こけの一念みたいな滝かぶりを、幾歳いくつ になるまで致したららち があくつもりかと言ってやれ。・・・・あははは、忘れずにの」
清盛のうしろ姿を、禰宜は見送っていたが、ふと、何か思い当たったように、身ぶるいして、滝守小屋の内へ走りこんだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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