上皇は、人づてに、お聞きになって、 「宋船を入れるためとは、口実であろう。平家の加担人
は、みな西国の国々にある。おそらくは、平家の兵船を常備するための計に違いない」 と、穏やかならぬ御気色みけしき
でつぶやかれた。 おそばに、藤原師光ふじわらもろみつ
といって、今は法体ほったい して、西光さいこう
法師と呼ばれている院の寵臣ちょうしん
がいた。 「まことに、御慧眼ごけいがん
です」 と、西光も同様な意見を述べた。 これより前に、清盛は、熊野へ行く為に、二ヶ月ほど賜暇を、院へも朝廷へも願い出ていた。 応保二年の三月である。 清盛が出発すると、西光法師も、旅へ出かけた。彼の留守の間に、福原地方を一巡し、やがて院へ帰って、後白河に、復命していた。 「つぶさに、探ってまいりました。いかさま、福原の高地に、別荘でも建てるらしく、土木の人夫が、働いておりました。大輪田の泊とまり
には、さして変化も見えません。ただ、水門みなと
川あたりに、人群れが見えるので寄ってみますと、木工寮もくのりょう
の野見のみ 隼人はやと
や飛騨ひだの 多門たもん
などという技官が、測量などをいたしておるようでした」 「ははあ、そのような、程度のものか」 「まず、六波羅殿の力を持ってしても、築港を施すなどという大工事は、思いも寄りません。あるいは、水門みなと
川の川尻かわじり に、小規模な波防なみよ
けを設けて、船造師ふなつくりし
などは置くかも知れませんが」 「あの辺りの荒磯は、弘仁、延喜年間にも、国費をもって、たびたび波防けの大工事は試みられていた。しかも、工事の成ったためしはない」 「清盛殿とて、それを知らぬはずはありません。・・・・ですから、やはり築港などと申すのはうそでしょう。御賢察のとおり平家の船蔵ふなぐら
でも設けて、何かの時の備えとなす考えにそういありませぬ」 「とにかく、清盛とは、常に、何か腹に策を持っている男よの」 「されば、帰途、西八条を見てまいりまいたが」 「お、西八条にも、たいそう、大規模な土木を起こしておると聞くが」 「いやもう、それは八分通り、できかけておりまする。宛えん
として、新しい城市が、都の一隅いちぐう
に、出来つつあるのでした。いったい、あんな広大な館 ── 濠ほり
をめぐらした城壁のような構え ── また無数の武者屋敷などに ── どんな王者おうじゃ
が住み、何者を聚楽じゅらく させるつもりでしょうか」 西光は、誇張もなく言ったつもりだが、後白河は、御気色みけしき
をうごかされた。何かを猜疑さいぎ
あそばして考え込む時によくなさる下唇の端を犬歯けんし
でかんでおいでになった。 |