〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-V 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (四) ──
石 船 の 巻

2013/05/25 (土) ひる がお ゆう がお (二)

天皇の側近中には、近年二、三の者を中心として、
「院政は、廃されなければならない。本来の天皇御一人ごいちにん の親政にかえすべきである」
という説がしきりにいわれていた。
二つの政府があるような制度は、元より国家の悲劇を生む以外の何ものでもない。御退位された上皇がなお朝廷の外に政権を持って、院宣いんぜん を下し給うというような悪弊あくへい は、多年、無数のわざわい を地上に証拠立てて来ているではないか。もう、たくさんだ。院政はなきにしかず、院政廃すべし ── という正論なのである。
そしてたれよりも、この正論に、熱心で、そして多くの言葉を、自由に駆使する者は、お若い二条御自身であった。
側近の同調者とて、じつは天皇の正しい御議論に、引き込まれた結果かも知れなかった。
とにかく、二条は、情熱的なお方にはちがいない。恋を遊ばすにも火の如く、政廟せいびょう に出御あれば、また、純理論の くところ、御父後白河の存在も、おん眼になくなってしまう。
清盛には、常々つねづね 、かくべつな御信寵ごしんちょう もよせておられるのに、ひとたび、院の近習、右少弁時忠が、憲仁のりひと 親王を、皇太子に立てようという策謀をしたと こし召すや、清盛の義弟おとと とて、仮借かしゃく はされなかった。
たちどころに、官職をとりあげて、蟄居ちっきょ を命ぜられた。
また、それ以後にも。
右馬頭信隆、左中将成親などを始め、上皇の親臣、資賢すけたか家通いえみち範忠のりただ 朝臣なども、異心ありと、朝議にのぼった者は、容赦ようしゃ なく、流罪るざい しておしまいになった。
それらの人びとの罪名は、表面にはうた われなかったが、うわさでは、かれらが、加茂の社に呪壇じゅだん を設けて、ひそかに、主上を呪詛じゅそ したとが であるという説がもっぱらであった。
さがない京雀きょうすずめ の陰口など、信ずるには足りないが、しかし、上皇側が、この事に対して、まったく、緘黙かんもく していたのは、時人に、一そう妙な疑いを深くさせた。
かくて、院と朝廷のあいだは、いよいよ、御不和をつのく らせたまま、深い氷雪の谷間をへだてて、一日一日、その対立を ぎ立ててゆく。
昼は、そうした政治のうえで、つい、感情を激されたり、夜は、弘徽殿の后のおんいあたわりにまぁで給うて、まだ玉体もほんとうには、大人としての御骨格に至っていないものを、可惜あたら 、尊い御生命をも、お短気な燃焼に浪費してゆかれるのが、余りにも美し過ぎるおやつ れになって仰がれてくるころ、もう御病は、よほど重らせ給うていたにちがいない。
翌年、永万元年 (また改元) の梅雨のころおい、御病間にこも らせられたまま、どっとおまくら につかれてしまった。けれどなお、御不予ごふよ は、側近以外には秘められていたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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