むりもない。 清盛が言うには、 「せっかくこの美しい島も、こう荒廃させておいたのでは仕方がない。いつの日か、自分が、この浜、この山の自然を生かして、都じゅうにもない一大天国を造営しよう。 たとえば、鳥居なども、世の常のではおもしろくない、前面海の中に、大鳥居を建て、島通いの供僧
や神主の舟も、その投影の中を漕こ
ぎ入って来るようにしたらよい。社殿、拝殿の左右に曲折させる長い廻廊かいろう
も、脚を海にひたし、潮の干満に、変化を見せ、夜は百八燈籠とうろう
をともして、光を、波に染ましめたら、どんなに、美しさを加えるであろう。まず中央に、社殿、千畳閣を築き、多宝塔たほうとう
や五重ノ塔は、山腹の松の木がくれにのぞかせよう。堂舎、楼閣も、木々をつづり、岩山へ倚よ
せ、造型の粹すい と、天工の美とを、この島に競わせてながめるのは、大いなる楽しみではあるまいか」 と、胸中の設計を、虹にじ
のように描えが いてみせ、 「いや、自分一人で見飽こうというのではない。気の小さい都人どもにも見せてやろうと思うし、じつはまた、海のかなたなる異国人とつくにびと
らの宋船そうせん も、将来は、しばしばこの辺りを通路とすることになろうから、そのとき、通詞つうじ
をして、こう説明してやりたく思う ── (あれ見給え、わが邦においては、かかる辺土へんど
の一小島すら、これくらいな建築と美術工芸はある。卿けい
らの眼からは唐朝とうちょう のまねと見ゆるやも知れぬが、松の姿や、白砂の渚なぎさ
に、四季の歩みのやさしさは、決して舶来のものではない。もしこれらの自然に、異国の天台建築や湖心寺のp塔をそのまま移しても、決して、この国の風物とはならず、かえって自然を破るものになる。それをよくわが朝ちょう
の物にこなしきった大きな調和の力は、また一つの創造といえるものでしょう。── この海中の小島にさえ、これくらいな物を造っています。まして、天子のいる都へ足を入れてごらんなさい)
── と。 どうだな。いかに宋人そうじん
でも、多少、驚きの眼を見張るであろう。そして、島にも上って来る。大いに、わが飛鳥あすか
、奈良なら 、平安の文物美術も見てもらおうよ。・・・・かつまた、やふぁて宋船が、大輪田ノ泊とまり
へ入ったときには、清盛の邸宅にも迎え、さまざま歓待もしてやろうと思っている。── なに。その大輪田ノ泊か。安んぜられよ。にわかにはゆかぬが、あそこを、良港とし、風波を防ぎ、一つの交易市として繁昌させる成算もある。胸には、その設計も出来ておる。──
そしてやがて、自分の別荘が福原に出来たら、清盛はこの島へ月詣りに通うて来よう。船も、唐船からふね
に劣らない大船を造らせて・・・・」 「・・・・・」 神主の景弘は、始終、あきれ顔だった。 ひそかに、 (このお人。すこし狂気めいていられるのではあるまいか?) と、疑いもした。 けれど、日吉ひえ
山王さんのう の神みこし
輿に、矢を射たお若いうちから、変わり者であるといううわさは彼も承知していた。それを思い出して、 (・・・・なるほど、変わっておらるる) と、だいぶ時たってから、苦笑を浮かべた。 しかし、清盛の言うことが、ほらに聞こえても、変わり者に見えても、景弘を始め、西海の武人たちには、なべて彼の印象はたいへん良かった。清盛の人間自体が、海のようにまるで限界がない。寛々かんかん
たる風がある。 「われらの六波羅よ」 と、それが恃たの
もしく思われたらしい。 帰路の船には、宗家そうけ
六波羅への贈り物が、じつに山なすほど積まれた。 宋そう
からの舶載品も少なくない。麝香じゃこう
、沈香じんこう 、綾あや
、羅うすもの 、錦繍きんしゅう
のたぐいや、絵画、青磁せいじ
の器、染料、薬品の類まである。 これらの品は、宋大陸の産物ばかりでなく、遠く地中海東部の小亜細亜地方から、アラビア人の隊商に運ばれ、ペルシャ湾を経て、宋大陸へ入って来た雑貨の一つだった物もある。そして、この平安末期の日本という極東の島国まで来れば、そのどれ一つでも、貴珍であり、人びとの魅力でない物はなかった。 「やがて、大輪田ノ泊が、良い港となる日が来れば・・・・」 清盛は、一日も早く、実現を見たいと思った。 異国の匂にお
いに触れると、なお気が急せ かれる。 しかし、前途は遠い。──
そこはよくわきまえていた。ただ、その日から、陽時計ひどけい
の影の歩みほどずつでも、実際へかかって、手をつけ始めなければ、夜がよく眠れないような彼の性分なのである。 途中、彼はふたたび、大輪田ノ泊へ寄った。 そして、五条の伴卜や、この地に残しておいた者を加えて、都へ帰った。前後一ヶ月半にわたる長旅だった。 都はもう白々と九月の秋風が吹いていた。
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