毎日肺も染まるほど、青海原
の大気を呼吸し、千々の島々に送迎され、行く雲、視界の外へまで、想いを放つ時、船上の彼は、どうかすうと、ひとりで笑いが止まらなくなったりした。 「ああ都は狭い。都みやこと、生き騒ぎ合っているが、なんと、小さい盆地の底だろう」
と。 今はもう亡な き人の数に入ってしまったが、死んだ筑後ちくご
、じじの家貞は、いいことを言っておいてくれた。 「── 天地の生んだ一個のもの。あなたはそれでいいではないか。白河の御子みこ
であろうが、なかろうが、一個の人間としてお立派であったらいい」 ── と。 いつ、どこで思い出しても、これはその通りだ。じじは、いいやつだった。 「海の見える地に、生涯の館を建て、八重の潮しお
に、理想の業を、顕現してみせん」 という彼の日ごろの夢は ── この時の船中で、いよいよ形を持ち、誓いが固められていたに違いない。 やがて、厳島の影を、波上に近く望んだ日。 「ああ、厳島」 と、清盛は恍惚こうこつ
と、ひとみを凝こ らした。なぜともなく頬ほお
に涙がつたわった。── 前世からの恋人がここに自分の来るのを待っていたとも、言いたげな面持ちであった。 平家の氏神。海の氏神。島そのものが、神の姿といっていい。 「今日は、結縁けちえん
の日だ。おれの考えを、この世に具現させる宿縁は、すでに、祖父の代からあったのだ。今日はようやくその結縁が熟して、自然に、これへわが身が運ばれてきたのだろう」 彼は、故知らぬ涙を、そう理由づけた。 厳島の砂を踏まないうちに、彼は、厳島を恋した。 「──
前さき の安芸守どのが、氏うじ
のみ社やしろ へ詣まい
られたそうな」 早くも、これは、近国に伝えられていた。 島には、神主の佐伯さえぎの
景弘かげひろ を始め、たくさんの神人じにん
、僧侶そうりょ が立ち迎えている。厳島いつくしま
の内侍ないし と呼ばれている巫女たちも見える。 が、島へ上ってみると、社殿も仏閣も、潮風に荒れ朽ちていて、美しいのは、白砂の浜と、岩山の松の姿だけである。 清盛は、浜の宿所にはいり、次の日から、すぐ幾日かを、参籠さんろう
した。 以後、彼が島に滞在中は、陸地の方から、たえまなしに、訪問の人びとが、舟を漕こ
がせて、ここへ上った。 遠くは、大宰府だざいふ
地方から、周防、安芸、備前、備後 にわたる国々の侍さむらい
たちが、風ふう を望んで会いに来た。
「yわさに聞く、都の清盛とは、どんな男ぞ?」 という興味もたあtろうが、保元、平治の大乱を通じて、いまや 「六波羅殿」 は、時の人として、津々浦々まで、知れ渡っていたのである。 「あなたの御祖父、正盛どのを、御存知申し上げておる」 という郷土の老武者もあらわれるし、 「お父君、刑部忠盛どのには、いたくお目をかけて給わった者でおざる」 と名乗る人々は、多数あまた
であった。 また、清盛自身の方から、 「おお、息災そくさい
でいたか」 と、久しぶりに見た顔では、彼が、太宰大弐という官職や、安芸、播磨などを受領していてころの部下が、少なからずあった。瀬戸内せとうち
の大島小島に住んでいる魚族そのもののような海の武士もいた。 「まるで、おれは、故郷へ帰って来たような心地がする。帰りとうもなくなったぞい」 酒宴の中で、清盛はそう言った。満座の郷党たちは感激した。平家の氏子うじこ
をもって任じている彼らである。清盛が、第二の故郷と言ってくれては、うれしいはずであった。 彼は、ここにも、半月を過ごした。わけても神主の佐伯さえぎの
景弘かげひろ とは、ひざを交えて、思いを語った。清盛が、胸中の構想を、割って話すと、剛腹ごうふく
な景弘も、眼をまろくして、 「ほ、ほう・・・・?」 と、驚異の表情をしただけである。 いかに、都の武門は今、平家一色になったとはいえ、まだ、権中納言参議の身分にすぎない四十そこそこの男の話として、余りに、大言に聞こえたのである。何か、
“夢みる人” みたいに見えたのだ。 |