淀川は、渇水期
であった。 水流の主脈でさえ、おりおり、船底が突き上げられる。そのたび水夫かこ
や郎党は船を降りたり、夏雲の下を、綱を引いたり、棹さお
をさして、下くだ って行く。 「これは、馬より遅いわ」 風のない大河の暑さも、べつである。 予定では、神崎川の支流から大物だいもつ
ノ浦うら へ出、船をかえて、大輪田おおわだ
ノ泊とまり (神戸)
へ渡るはずだったが、渇水のため、あくる日からは、騎馬の列で、昆陽野こやの
の夏草を分け、打出ヶ浜の焼け砂を踏んで、やがて摩耶山まやさん
のふもとへついた。 御影みかげ
から西、生田川、花隈はなくま
、会下えげ 山下さんか
の磯いそ あたりまで、山を背にし、海に沿うた細長い平地がある。 人煙もまれで、のべつ西南風が磯松をしぶきに濡らし、おりおりに寄る西国の便船も、少し風浪が立つと、漂うほかはない。 しかし、風光は佳よ
い。西国街道の要路でもあった。往還おうかん
の都人は、この辺の平野一帯を 「福原ふくはら
」 と呼び、磯を 「大輪田おおわだ
ノ泊とまり 」 と呼び分けている。 「・・・・あれは保元元年、おれはまだ十八だった。父の忠盛について、西国の乱を平定し、大勢の兵と一緒に、ここへ上陸したことがあった。・・・・あのころの漁夫の小屋も、磯馴そな
れ松も、そのままだ。変わったのは、世の中。いや、おれ自身も ──」 福原へ来ると、彼はいつも、遠い記憶にとらわれる。追憶の中には、父がある。なんとなく、この土地の風光も好きだった。海が性に合っているというものか。清盛は、海に対していると、何か、本来の自分が、濶然かつぜん
と、自分の中から洗い出されて来る気がした。 平家代々の領地はふしぎと海に縁がある、伊勢も海だった。備後びんご
、肥後ひご 、安芸あき
、播磨はりま など、海にそわない所はない。 清盛の若年ごろの旅行も、初陣ういじん
の思い出も、一族との関係も、すべて海を離れてはないほどだ。そにため福原こそは、多感な過去と未来につながる、彼の夢の基地であった。 彼は、半月ほどを、この地の駅路宿うまやじやど
に、泊っていた。 その間、 「伴卜、供をしろ」 と、後ろの山へ登ったり、炎天下の平野を、暮るるまで歩いたり、またある日は、 「今日は、海へ出よう」 と、木工寮もくのりょう
の技官たちも乗せて、輪田ノ岬や、生田の川尻かわじり
など測量して、暮れるも忘れ果てたりした。 雨の日には、踏査の後を、製図させた。 彼がその海図や陸図を前に、深夜まで、ひとり構想にふけっていることもままあった。 また、終日、一同で協議にくれる場合など、人びとは、ついに倦う
み疲れてしまったが、清盛は、倦むことを知らなかった。 いや、時には、真夜中、 「・・・・そうだ」 と、突然、寝床の上に起き上がる。そして、灯皿ひざら
をかき立てて、例の絵図をひろげて、暁になることすらある。 「余りに、この地に長逗留ながとうりゅう
も、いかががなものでしょう。都への聞こえも、へんではありませんか」 「うむ、厳島詣でと、申しふれて出たのだからな」 「あとの調べは、てまえがこの地に残って致しましょう。地相、水利、道路など、お考えの原案を基準として」 伴卜のすすめを、清盛は容い
れた。彼と一部の技術者だけを残して、やがて海路を厳島へ向かった。 幾夜の眠りを、浪音の上にむすんで ──。 |