〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/24 (金) うみうじ がみ (二)

淀川は、渇水期かっすいき であった。
水流の主脈でさえ、おりおり、船底が突き上げられる。そのたび水夫かこ や郎党は船を降りたり、夏雲の下を、綱を引いたり、さお をさして、くだ って行く。
「これは、馬より遅いわ」
風のない大河の暑さも、べつである。
予定では、神崎川の支流から大物だいもつうら へ出、船をかえて、大輪田おおわだとまり (神戸) へ渡るはずだったが、渇水のため、あくる日からは、騎馬の列で、昆陽野こやの の夏草を分け、打出ヶ浜の焼け砂を踏んで、やがて摩耶山まやさん のふもとへついた。
御影みかげ から西、生田川、花隈はなくま会下えげ 山下さんかいそ あたりまで、山を背にし、海に沿うた細長い平地がある。
人煙もまれで、のべつ西南風が磯松をしぶきに濡らし、おりおりに寄る西国の便船も、少し風浪が立つと、漂うほかはない。
しかし、風光は い。西国街道の要路でもあった。往還おうかん の都人は、この辺の平野一帯を 「福原ふくはら 」 と呼び、磯を 「大輪田おおわだとまり 」 と呼び分けている。
「・・・・あれは保元元年、おれはまだ十八だった。父の忠盛について、西国の乱を平定し、大勢の兵と一緒に、ここへ上陸したことがあった。・・・・あのころの漁夫の小屋も、磯馴そな れ松も、そのままだ。変わったのは、世の中。いや、おれ自身も ──」
福原へ来ると、彼はいつも、遠い記憶にとらわれる。追憶の中には、父がある。なんとなく、この土地の風光も好きだった。海が性に合っているというものか。清盛は、海に対していると、何か、本来の自分が、濶然かつぜん と、自分の中から洗い出されて来る気がした。
平家代々の領地はふしぎと海に縁がある、伊勢も海だった。備後びんご肥後ひご安芸あき播磨はりま など、海にそわない所はない。
清盛の若年ごろの旅行も、初陣ういじん の思い出も、一族との関係も、すべて海を離れてはないほどだ。そにため福原こそは、多感な過去と未来につながる、彼の夢の基地であった。
彼は、半月ほどを、この地の駅路宿うまやじやど に、泊っていた。
その間、
「伴卜、供をしろ」
と、後ろの山へ登ったり、炎天下の平野を、暮るるまで歩いたり、またある日は、
「今日は、海へ出よう」
と、木工寮もくのりょう の技官たちも乗せて、輪田ノ岬や、生田の川尻かわじり など測量して、暮れるも忘れ果てたりした。
雨の日には、踏査の後を、製図させた。
彼がその海図や陸図を前に、深夜まで、ひとり構想にふけっていることもままあった。
また、終日、一同で協議にくれる場合など、人びとは、ついに み疲れてしまったが、清盛は、倦むことを知らなかった。
いや、時には、真夜中、
「・・・・そうだ」
と、突然、寝床の上に起き上がる。そして、灯皿ひざら をかき立てて、例の絵図をひろげて、暁になることすらある。
「余りに、この地に長逗留ながとうりゅう も、いかががなものでしょう。都への聞こえも、へんではありませんか」
「うむ、厳島詣でと、申しふれて出たのだからな」
「あとの調べは、てまえがこの地に残って致しましょう。地相、水利、道路など、お考えの原案を基準として」
伴卜のすすめを、清盛は れた。彼と一部の技術者だけを残して、やがて海路を厳島へ向かった。
幾夜の眠りを、浪音の上にむすんで ──。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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